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「神君大和越え」など今日の雑感
今日から夏休みのようで、子供たちの元気な声が聞こえる。
「熱中症対策は大丈夫か?」と余計なお世話をしてしまう。
今日から新幹線の車内チャイムが変更される。
聞きに行き、そのまま旅したい気分だが、暑くて萎える。
本能寺の変をたどる旅───
この年だと愛宕山は無理だ。
秋葉山のように車道とか、久能山のようにロープウェイがなければ無理だ。
安土城も無理。岐阜城はOK?
本能寺は、元本能寺、当時の本能寺、現本能寺を巡りたい。
そして、阿弥陀寺の織田信長のお墓へ。
堺から白子へはジムニーをレンタルしないと無理のように思われる。
「神君伊賀越え」は3泊4日の逃走劇だったとされる(異説あり)。
6月2日 堺発。長尾村八幡宮泊。
6月3日 信楽・小川城泊。
6月4日 白子で乗船。船中泊。
6月5日 早朝に大浜港着。岡崎城へ入城。
現在は「神君大和越え」説が話題である。吉川孫次太夫の案内者・吉川主馬之助(筒井順慶の陪臣。猶子・吉川権右衛門は豊臣秀頼家臣)は、長尾村八幡宮から鹿毛の馬を拝領している。吉川主馬之助は、「神君伊賀越え」では、長谷川秀一の依頼で途中から合流したとするが、これは「大和越えをした神君の影武者を連れて合流した」ということなのだろうか?
吉川善兵衛┬吉川主馬之助─吉川権右衛門
└吉川孫次太夫
「神君大和越え」説の味噌は、「徳川家康は、織田信長の死を堺で知った」である。通説のように「徳川家康は、織田信長の死を堺から京都に向かう途中で知った」では、「神君大和越え」説はありえないのだが、『信長公記』『当代記』など、古い史料には「徳川家康は、織田信長の死を堺で知った」とある。
そろそろ通説が崩れる?