西日本修験の旅 -福岡側の英彦山修験①-
お犬の歯形だらけの腕を二本たずさえて、次に向かうは日本三大修験霊山の一、英彦山(ひこさん)。
今回の旅のメインと言ってもいいお山。
新山口駅から小倉駅へぴゅんと移動して、レンタカーを借りいざ九州の旅路へ。
小倉から車で約1時間半。
目指すは松養坊(しょうようぼう)という英彦山修験の坊のひとつ。
英彦山、一時は800近い数の坊が神領内にあったそうですが、松養坊はその中でも古い坊とのこと。
↑松養坊。昔の坊のかたちをそのまま残している
英彦山にはもう山伏はいないそうですが、松養坊を守ってこられた山伏の末裔、松養(まつがい)さんに英彦山修験に関するお話を伺いすることができました。
今回の旅は修験の霊山を身をもって感じに行く旅(西国峰入修行の旅)ですが、まさか坊の方から直接英彦山修験のお話が伺えるなんて…!
アテンドしてくださった高山さん、高山さんをご紹介いただいた福島さん、福島さんを紹介してくれたごっちゃん(高千穂のゲストハウス『さんかく』の女将)、皆さんには本当に感謝です。五体投地
松養坊の前まで来ると、既に松養さんが外に出て待ってくださっておりました。
↑松養坊の上がり口から中を見たところ
上の画像に写っている一番奥の部屋(お客さんを通す客殿←えらい部屋)に通していただいて、英彦山のパンフレットやお手製の資料、古い地図など見せていただきながらお話をしてくださった。
(こんな厄介な時期に突然来た他人のわたしに、本当に有り難いことです)
英彦山修験は江戸あたりにはずいぶんと大きくなり、組織的に分業されたような構造にもなっていたそうだ。
300余りあるすべての坊が
『行者方(ぎょうじゃがた)』(山伏系)
『衆徒方(しとがた)』(仏教系)
『惣方(そうがた)』(神道系)←一番多い
のいずれかにそれぞれ分かれていたとのことで、
山林修行は行者方が、仏教儀式は衆徒方が、神道儀式は惣方が、という風にそれぞれの役割を分けて動いていたらしい。
ちなみに松養坊は行者方だったそうだ。松養坊の二階に頭襟やら法螺貝やら袈裟やらいろいろ保管してあるのを見せて下さった。
口決(口伝で伝えたもののメモ)がたくさん!うひゃー!
それと英彦山の参道周辺は山下から山上に向けて三つある鳥居を結界として4つにエリア分けされているそうだ。(四土結界と呼ばれる)
上から
『常寂光土(じょうじゃくこうど)』
→永遠絶対の浄土。仏界。
『実報荘厳土(じっぽうしょうごんど)』
→修行専念の聖域。菩薩界。
『方便浄土(ほうべんじょうど)』
→仮の浄土。行者界。
『凡聖同居土(ぼんせいどうきょど)』
→凡人と聖者がともに同居している。凡聖雑居界。
名前が難しいけど、へーーーーー!!
吉野はこんなにきっちり聖俗分けてないよなぁ。
まぁ4つ鳥居はあるけど、結界っていうよりは決意固めの門って意味が強いよなぁ。距離も長いし。(二の門から三の門まで20kmくらいある)
同じ発想だけどちがう発展の仕方。おもしろいなぁ
あそうそう、英彦山は坊の者は俗世の仕事はしてはいけないというルールだったらしい。いつ頃からのルールなのかはわからないが。
※吉野修験は役行者さんの時代からずっと半僧半俗なので、俗世の仕事もしながら寺のこともやる、というのが当たり前
これは上記の四土結界に大きく関係するルールだそう。
一番山下に位置する聖俗入り混じった凡聖同居土と二番目の行者が生活する方便浄土は商売ok、でも凡聖同居土は五穀の栽培NGだったり方便浄土は出産NGだったり。そこに住んでいる山伏たちはずっとそこにいるだけ。俗世には下りない。
ちなみに山上の2階層は行場と聖域だから俗なものは一切お断り。
里に下りず、ずっと山内の狭いコミュニティにいるのはさぞ辛かろうよ。
いろいろあったろうなぁ。
さて、民間信仰に大きな影響を与えた出来事といえば、明治の修験道禁止令、神仏判然令が真っ先に思い出されるけれど、英彦山修験にとっては幕末も大きく流れが変わった時代だったそうだ。
英彦山は尊王派の山だったそうで、尊王派の活動をしていた山伏が捕らえられ処刑されたという事件があったそうだ。(その時に処刑された山伏たちの墓が山内に残されていた)
このあたりは長州も薩摩も近いからなぁ。
※詳しくはこちらの記事をどうぞ→『小倉藩の英彦山勤王僧弾圧』(産経新聞より)
つづく
記事を読んで「サポートしてやってもいいな」と思ってくださいましたら、少しだけサポートしてもらえると嬉しいです。いただいたサポートはお堂の維持、修行、山伏装束の費用に使わせていただきます。