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西日本修験の旅 -福岡側の英彦山修験②-

英彦山修験のエリアは時代にもよるがものすごく広い。
(宇佐や宝満山、大宰府も関わりがあるとのこと。うへー)
古代・中世は『七里結界』と呼ばれる神領規模だったそうだから、金峯山寺の寺領と同じくらいだ。

地名としての『英彦山』福岡県の添田町に残っていて、英彦山神宮(もとは霊仙寺という修験寺院)がある場所も、メインの山である南岳、北岳、中岳があるのもそこだ。
そのため九州北東部で『英彦山』というと添田町のエリアをさすのだそうだ。

知らんかったよ…(´;ω;`)

↑『金峯山』的な感じで全体的に英彦山って呼ばれてると思ってた(雑)

というわけで、メイン『英彦山』エリアにいる時間をまさかの半日しかとっていなかったわたし。うぎゃーなんてこった。山伏女将一生の不覚。

ただ、松養さんの案内で参道を歩いていた午後3時ごろから急に土砂降りの雨になったので、どちらにしろお山に入れる天気ではなかったのだけれど。
その分、松養さんからたくさんたくさんお話を伺えました。


英彦山修験は西暦530年ごろ智室谷(ちむろだに)という谷から始まったと言われている。(※善正上人による開山)
まだこの頃は大きな組織ではなく、坊の数も数えるほど。
そこから隣の谷へも坊が増え、またその隣にも…という要領で規模が大きくなり、最終的に現在も遺跡として残る参道沿いに800余りの坊が立ち並ぶ宗教都市ができあがる。
※ちなみに松養坊は初期の智室谷時代からあるとても古い坊

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