やまない雨があるからつらいのではなくて、この雨がやまないと思うからつらいのである。
つらい思いをしている人に向けてよく使われる言葉で、それで嫌われる言葉といえば「やまない雨はない」という言葉があるだろう。知ったことかとこっち側は思うのだが、そういうことを言う人に限って、その言葉を聞いたときに少し陰る表情に気付かないのだ。
やまない雨はない。これは正しい。事実として、私達が生まれてからのこの数十年という日々において、雨がやまなかった日はない。この事実に関して私は否定したいのではない。ただ、やまない雨があるのは、結果的に、その人が死んだ時だ。多くの場合それは自殺だ。
自殺した場合、当たり前だが、その雨は結果的に「やまなかった」のであり、この場合だけはやまない雨というものが存在することになる。自殺した人は何も語ることができないし、自殺した場合にまで誰かがお説教するということはほとんどありえないから、このようなケースを除いて「やまない雨はない」などと言うのである。
ただ、自殺した人にとってはその雨はやまないものだったのだろう。やまない、終わらないと思っているからこそ、自殺したのだから。やまないと思っていなかったら、どんあにつらいことでも希望が持てるのだ。
よく底抜けの絶望のことをアウシュヴィッツに例える人がいるが、ここでもそのたとえを使ってみようと思う。ただ、実際にはアウシュヴィッツは「殺す」ための収容所だったので、労働を目的としていたベルゲンベルゼンあたりであろうが。実際アンネフランクが亡くなったのはベルゲンベルゼンである。かなり蛇足であるが、ここでは全部まとめてアウシュヴィッツとしておこう。
アウシュヴィッツに入れられた囚人たちは、漠然とクリスマスには解放されると思っていたらしい。クリスマスが近づいて、もうじき解放されるとわずかな望みを持っていても、ご存知の通り、クリスマスになっても何も起きなかった。そうすると囚人たちの絶望はより深まったという。
話を戻そう。やまない雨はないという言葉がこんなに痛いのは、その雨がやまないと思っているからであり、いつやむかもわからない状況にあるからだ。
ここで私のラクイラの友人が言っていたことを紹介しよう。
コロナウイルス(COVID-19)の流行は地震よりひどい。地震はだんだん状況が良くなっていったが、コロナウイルスはひどくなっていくばかりだ。それに地震はもう起きないと思っているが、コロナウイルスはいつ終わるかわからない。
―ラクイラの友人
事実イタリアでも日本でもコロナウイルスによる自殺者が出たが、それはつまりそういうことだ。