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長いものの夜(1/3)

 もう数日で冬休みという頃だった。
 夏に見つかってからというもの、二人でいることが当たり前になった物理実験室で、日下陽介は英語の宿題に苦戦している。その進み具合を気にしながら、桂月也は宇宙の誕生に関する本のページをめくった。多少気を散らしていても大丈夫なのは、再読だからだ。
(あー、そこは単語に区切らないで……あ、気付いた)
 消しゴムを動かす陽介に、月也はそっと笑う。放課後の特別講義は無駄になっていなかったようだ。べっこう色の眼鏡の奥の瞳は険しいけれど、以前ほど、躓かなくなった。
(あと一年あれば、公立大合格ライン行けそうだなぁ)
 もともと、陽介の頭の出来はいいのだろう。科学部入部テストをあっさりと解き、夏の放火魔事件の犯人を見つけ出した名探偵でもあるのだから。
 だから……ふと月也は思う。
(俺、いらないんじゃねぇかな)
 本当は陽介一人で充分、受験勉強もこなせるのだろう。そもそも、まだ一年だ。彼で焦るのなら、二年の自分の方がよっぽど、宇宙論など読んでいる場合ではない。
 勉強は、なんとなくつながるための口実の一つで。
 科学部という名前だけ立派で中身のない、空っぽの時間を潰すための言い訳だった。
「……終わったぁ!」
 月也が本に戻って数ページ。陽介が大きく伸びをする。一度も質問をせず、自力で片づけたことに気付いていない様子で、さっさと宿題のプリントをデイパックの中に詰めた。
「お疲れ様」
 月也は本にしおりを挟む。なんとなく左手に持ったまま、右手で頬杖をついた。特に語りたいこともなかったから、眼鏡の縁をぼんやりと見つめた。
「頑張りましたぁ。先輩に聞きたいこと浮かんだんですけど、我慢して!」
「聞いてくれてもよかったのに」
「だって、勉強とは関係ないことですから……」
 読書の邪魔をしてはいけないと遠慮していたらしい。付け加えれば、そのまま雑談をしてしまうことを警戒したようだ。「お喋りは我慢」と心の中で唱えていたという。
「どんなユニークな話題だよ?」
「先輩はお蕎麦の具って何が好きですか?」
 月也はパチパチと大袈裟に瞬いた。一言二言で終わりそうな疑問を、ずっと黙っていたことがおかしかった。
 陽介は口を尖らせて、左手で頬杖をついた。
「年越し蕎麦なんですけど、妹が変わり種にしろってうるさいんですよ。僕はスタンダードの方がいいと思うんですけどね」
「ふぅん……俺もお揚げとか、一般的なもんでいいと思うけど」
 一度口を閉ざし、月也は斜めに視線を落とす。ほんの少しためらって、けれど、陽介の反応を見たい気もして口を開いた。
「年越し蕎麦って食ったことないからな、俺」
 あ、と陽介は気まずそうに視線をさまよわせた。
 頭の回る彼のことだから、きっと桂家の年越しの風景を想像できている。手伝いに来ているキヨは、実家たる神社の方で忙しい。両親は、月也に食べ物を出すようなことをしない。そもそも……。
「年末年始って一人だし」
「桂議員たちは……」
「東京。色々とお忙しいみたいですよ」
 短く息を吐く。どうせ離れで過ごしているから、本宅に誰かいようがいまいが関係ないけれど。否応なく聞こえてくる除夜の鐘には虚しさがあった。
(なんて、こんな話したら……)
 月也は気付かれない程度に苦笑する。陽介がこれから言い出すだろうことを想像して、それを期待している自分に、どうしようもなさを感じた。
「誰もいないんだったら」
 陽介の、眼鏡の奥の瞳がきらめいた。
「お蕎麦、作りに行ってもいいですか? 一緒に年越ししましょうよ」
「……やだ」
「なんでっ?」
 あまりに願った通りの展開だから、素直になりたくなかった。素直に受け入れたところで失われるものがあるわけではないけれど……いや、失わないために受け入れないのかもしれない。
 一人に慣れ過ぎているために、一人ではないことを持て余してもいる。
 どうせ「独り」に戻るのだと、論拠もないのに思い込んでもいた。
「面倒だろ。あっちでこっちで蕎麦作ったりしてたら」
「大丈夫ですよ。家の方は僕の義務じゃないですし。なんならカップ麺でもいいです。先輩と年越ししたいだけですから」
 陽介はあまりにまっすぐだ。雲一つない空の日差しのような笑顔を、理由のない不安で拒絶することも限界だった。
「カップでいいなら、俺が買っとくよ」
「はい! 初詣も行きましょう。どうせ行ったことないんでしょう?」
「まあ、願いたいこともねぇし」
「だったらちょうどいいですよ」
 陽介は少しばかり挑発するように笑う。どういう意味か分からないでしょう? と問いかけてくる視線に、月也は口を尖らせた。
 陽介は楽しそうに、デイパックからカラフルな水玉模様の保存袋を取り出す。中にはジンジャーマンクッキーが入っていた。
「初詣って、旧年の感謝を伝える行事ですから。ついでに新年の願掛けもしますけど、一年を無事に過ごせたことの報告があってこそです」
「おう……話の内容とクッキーが一致してねぇことが気になるんだけど」
「クリスマスも近いですからねぇ」
 作りたいものが沢山ある、と陽介は楽しそうに袋を開けた。忘れてた、とキッチンペーパーを取り出し、その上にクッキーを並べる。人型だけではなく、星やツリーの形もあった。
「でも、すみません。プレゼントはないんです」
「気にしねぇけど」
「僕の中で、自分で作ったものはセーフってことにしてるんで、お菓子とかはいいんですけど。働いてもいないのに買ったものを渡すのは、なんか違うなって思ってしまって」
 生真面目な陽介らしい、思いながら月也は星型のクッキーをつまむ。甘さの中に、ショウガのスパイシーな香りがあった。
「じゃあ、俺も何もやれねぇな」
「はい。バイトでも始めたらプレゼントしますから、楽しみにしててください」
 陽介は強い眼差しを向けてから、軽く睫毛を伏せた。そこに、言葉の真意があった。
 ――楽しみに、生きていてください。
(痛いな……)
 月也も目を伏せる。
 陽介は知っている。月也が死を望んでいることを。親殺しの完全犯罪者を目指していることを。知っているから、こうして、生きることを願ってくる。
 それは、痛い。
 夏の日差しのように、ジリジリと心を焼いてくる。日焼けが楽しめるものでもあるように、悪い気もしないのがまた、質が悪かった。
「……日下は、俺からもらうとしたら何がいい?」
「フライパンかな。今は家にあったものを使ってるので、自分のものって感じのフライパンが欲しいです」
「らしすぎ」
 月也はケラケラと笑う。陽介は何故か得意そうにクッキーをかじった。
「待ってますから」
「了解」
 軽い調子で約束して、あーあ、と月也は気付いた。結局こうして「生かされる」のだ。約束を果たすまで、死を先送りにされてしまう。
 反故にすることは簡単だ。
 できないのは、一人に戻ることが怖いからだ。
(誰かを知るってのは、痛いな……)
 かじったジンジャーマンクッキーは、固めだった。


 打ち切りになるくらいなら、綺麗な形で終わらせる! を目標に書いたのが4巻(完結巻)でした。そういう事情ですので、短編集が出る可能性は皆無に等しいんですよね……いずれ同人誌にまとめてBOOTHで販売してみたいな、と思ったりもしています。コミュ障なんで、文学フリマはハードルが高いんですよね(笑)
 実は、幻の最終回もあったりします。月也がきょうだいと向き合った時、「兄」としてどう振舞うのか……そして「家族」としてどうあろうとしたのか、というような。これはネタバレがすごい短編のため、ネットでの発表はない予定です。