【GTA5二次創作小説】ジュン・カサイとは何者なのか2
小説『GTAVJK』を読み終えてロスになった私とごく僅かな数名の奇特な人達向けのコラム第2回です。
前回↓
少女成長譚として
GTAVJKは典型的な成長譚として書きました。
まだ多くを手に入れていないジュン・カサイという子供が、物語を通して様々な大人と接することで様々な要素を入手し、大人としての自我が芽生える物語です。
ジュンはとても打算的で計画性のない人間です。周囲のことを気にかけはしますが協調性に乏しく、感情的になりやすいくせに地頭は悪くないので自分が論理的に考えることのできる人間だと盲信している節があり、さまざまな失敗を責任転嫁しがちな少女です。序盤では、まだ未熟なくせに啖呵を切って家出し、未熟であるが故に大失敗し痛い目に遭います。(砂漠放浪編)
そんな足りないものだらけの少女がフランクリンから「友情」、マイケルから「家族」、トレバーから「仕事」という要素を入手し、成長していきます。GTAVJKで描きたかった最大の要素が、この少女成長の物語でした。
3人の主人公の要素を内在するジュンは、物語を通して多様な役割を担います。中年の調停機関、ラマーの理解者、デサンタ家5人目の家族、TPIの社畜などが該当します。物語はジュンの葛藤→成長→挫折のサイクルを通して進展し、彼女がそれらの役割を超越していくことで自己認識を確立していく様子が描かれます。その極点は2つあり、1つが「愛国者の哀歌」の最後の会話シーンです。
すでにジュンは、2人の中年に対する不信感であったり、テキーララを買収するという個人的な夢の萌芽を経験しています。それを踏まえ、それまで数少ない身近な大人のサンプルであり、目標であったマイケルとトレバーをどのように噛み砕いて自分の糧とし、超越するかを端的に語りました。
それまで目指すべき大人、方法論、イデオロギーをマイケルとトレバーにある意味「依存」していた少女は、この依存関係の放棄を宣言したのです。この時点でジュン・カサイという個人は確立化されたと私は考えております。
なお、ジュンの自己認識が確立するもう1つの極点はデビン・ウェストンの存在を踏まえた「プランC」のエピローグなのですが、これは次で説明します。
多様な大人達の存在
ジュンに影響を与える大人は3主人公だけではありません。ジュンが成長するにつれて関わり合う大人は増えていき、様々な承認や肯定を与えられ、それを成長の糧にします。
たとえばパトリシア・マドラッゾからは「母親」という足りない要素を一時的であれども与えられます。また、パトリシアからは「子供であること」の肯定を与えられますが、結局ジュンはそれを否認し、大人としての自立を選択しました。ちなみに、パトリシアとの別れのシーンでジュンは夢に出る母親のことを話しますが、それが日本のメディアなどで形成させた世間一般的な「中流家庭」がモチーフになっていることから、ジュンという人格は総中流社会を目指した日本で中流になれなかったゆえに形成された側面もあると分かります。ジュンの成長は単純な向上性ではなく、このような自らのレガシーと向き合い、どのように克服していくかにも及びます。
良い大人ばかりではありません。(悪い大人しか出ない作品で何を言ってるんだと思われそうですが……)ジュンの成長の糧には悪い大人が沢山います。
トレバーとは対照的(?)に適正な報酬を与えぬまま下っ端をこき使う「悪い雇い主」としての要素であるスティーブ・ヘインズ、若者の中に混じってお山の大将を気取る「悪い先輩」としてのストレッチなどの存在です。
特に重要なのが、GTAVでもラスボス的な存在となるデビン・ウェストン。私は彼というキャラクターを「資本主義」の擬人化だと見ています。より詳細に見ると強烈な自助努力精神、新自由主義、社会ダーウィニズムなどの要素によって具現化した存在と見ることができます。実はこのデビン・ウェストン要素は、ジュン・カサイという存在が大人になる上での最後のピースでもあるのです。
少女成長譚と言うとポジティブなイメージが先行するかもしれませんが、最終的にジュンを自立した大人たり得るのはデビンというネガティブな要素です。これは「プランC」のエピローグで明らかになります。日本に向けたビデオメッセージでは自らを「日本人でもないしアメリカ人でもない」とし、所属を超越した強さを誇示することで自らの存在を確証します。
また、エピローグの最後の文であり、意図的に物語の各所に数回出現させた文でもある「何しろここはアメリカ、資本主義の極地だ」は、形は違えどデビンのイデオロギーに即した振る舞いをジュンが信じて決意する内容であるのです。フランクリン、マイケル、トレバーから大人としての要素を入手したジュンは、最終的にはデビン・ウェストンを継承することで本当の意味での個を手にして、物語を終えます。
余談:デビン・ウェストンとは何者か
余談ですが、なぜGTA5はデビン・ウェストンがラスボス的な立ち位置なのでしょうか? 物語の序盤から現れる人物でもないし、登場回数もさほど多くなく、少しばかり小物感が強すぎるし、ラスボスとしてイマイチという意見も聞くことがあります。
私は、GTA5のテーマは「アメリカ流資本主義」であると考えています。その象徴的な存在がデビン・ウェストンであり、ラスボスに相応しいのではないのでしょうか。
「プランC」の最後にマイケルが説明してくれたように、アメリカの資本主義には「下請けの過重労働」と「租税回避」という富める者に有利な2つの「害毒」があり、アメリカ社会は、そのような負の要素を抱えながら資本主義経済によって表面的に豊かな国を維持しています。主人公達がこの資本主義の「害毒」に翻弄されるのがストーリーの大筋になります。特にマイケルは中間管理職的な立ち位置として資本主義の富める立場と搾取される立場の間に立つことになります。(今にして思えば、FIBと友人の中間管理職として振る舞うデイブとも重なる要素であり、2人がなぜ友人関係にあるかの裏付けのような気がしてなりません)
最終的にはこの資本主義の象徴を始末し、トレバーの台詞「俺達の資本主義に立ち戻ろうぜ」にストーリーが集約されます。その後のフランクリンの台詞「ったく、デビンよりどれだけマシなのか」というのも印象的です。GTA5のストーリーは資本主義の否定ではなく、資本主義の「害毒」の否定にとどめてあることは留意すべきです。
以上から、私はデビン・ウェストンがテーマに即したラスボスであると思うのです。そして拙作では、このネガティブな要素を超越するのではなく継承した唯一の主人公としてのジュン・カサイを描きました。ジュンという存在は、その強度が増せば増すほどにデビンに近づいていきました――これは小説構想時に予定していたわけではなく、執筆の2周目に入って気づいたことをそのまま反映させたに過ぎません。その頃には、ジュン・カサイなる人物は私の手の内を離れて自我を手に入れていたのかもしれないです。
きっとジュン本人は(そのアイデンティティ不明瞭かつ冷笑的な性格ゆえ)デビンと似ていることを認めたがらないと思いますが、リバタリアニズムとも言える極端な自助努力の行き着く先を指向している点では同じなのです。それがベンチャーキャピタルか、強盗かの違いは本質的ではありません。ジュンは、デビンを始末したことで内包したとも言えるのです。
さらに余談ながら、マイケルが口にした「害毒」という言葉は、この数年後に発売されるロックスターゲームスの超大作『レッド・デッド・リデンプション2』にも通じるような気がします。
というのも、ラスボスの立ち位置にある彼は「アメリカの猛毒(American Venom)」と位置づけられていて、資本主義化し成長しつつある19世紀末-20世紀初頭アメリカが脱却すべき暴力的な無法者――負の側面の象徴でもあるからです。もちろん開発チームは異なり、脚本も異なりますが、両作品が異なる時代のアメリカの「毒」について象徴的な人物をラスボスに据えたことに、偶然とは異なる何かを感じてしまいます。
次回は「悪事の報い」について。
GTAシリーズ(それと、RDRシリーズでも)お馴染みのバッドエンドをジュンに用意した理由を書きます。