厄年と 神仏と 偶然と 必然
去年は前厄詣りをした
私は神仏には普段傾倒せず
先祖代々の仏壇を大切にし
ことあれば手を合わせる
そんなレベルに落ち着いている
前厄での災難は多岐にわたった
前厄だからと言う理屈付けを
その時は全く行っていないのであった
父親が後縦靭帯骨化症(難病)に罹った。
続けるように母親が卵巣の摘出を行った。
心配性の権化の様な家族は慌てに慌てた
その素振りを見せない様にする事自体
周りを心配させない様にするための
心配性であることに自覚か不自覚の何れかを持って
しかしそんな難儀の中にあって
不幸中の幸い、としか思えない偶然?必然?
巡り合わせ?が多岐に内包されていた
父親は難病指定、しかし普段行っている
整形外科でたまたま他の部位のレントゲンを
とったことで見つかった
またすぐ近くに施術例豊富な良医がいた
良医曰く『 もう少しで車椅子生活だったですよ、
よくみつけてもらって良かったですね』と
入院生活もコロナ禍の中順風満帆に過した
母親もただお腹が調子わるいと
かかりつけの小さな医者へ行ったとき
撮影したCTにたまたま写り込んでいた
卵巣にできた小さなでき物を
医師が気にかけてくれ、大病院へ紹介してくれた
悪性のものではなく『 ガン発生のリスクも減りますし』
との事でこれといった難もなく卵巣の摘出を行った。
また本厄に突入したこの私は訪問介護の途中
単独事故を起こした。
被害者はおらず
次の訪問までかなりの時間の余裕があったこと
また休むと行っていた上司が
たまたま別件で会社に来ており
私の業務をとってくれたこと
療養中だがただの脱臼ですんだこと
色んな偶然が重なり業務は滞らなく終わった
私は医療を妄信する訳でもなく
そして母親の様に神仏を妄信する訳でもない
初詣などほとんど行かない
また験担ぎなど凡そ信じない
ただお婆や御年寄が言っていた
『 神さんが見たはるんや』
という言葉が何度よぎったかわからない
厄年だが、被害を、難を、最小限に抑えてくれた
何時しか私の思考がぐるぐると巡っていく
それが確信に変わる事は今後もないだろう
そうではなく不信に陥ることはないという
確信に変わったのである
ただの気の持ちようだと言われればそれまでである
でもそう言われようとそれでいい
これからは微かな、目に見えないものを、
心に収めて生きていけるのだから