一瞬ごとの道
山、道ときて、最近読んだ記事を思い出す。文化人類学者・古川不可知氏のインタビューだ。
古川氏は、エベレストの登山客の荷物を運ぶポーターや、道案内をするガイドとして働く「シェルパ」たちの調査をもとに、山における「道」への思索をしている学者である。登山客はさまざまな身体をもって、世界最高峰を目指す。彼らを導くシェルパとの交流を通して、環境の変化や個々の身体によって、何が「道」であるか、そこにどんな「道」があるのか、その立ち現れ方が異なるということに、古川氏は気づいたのだという。彼のいう”身体が抵抗をともないながら移動していくのと同時に、環境中の予想外の要素や条件が組み合わさって、一瞬ごとに「道」が構成されていく"、というイメージは魅力的だが、それをすぐに自分の生活圏での感覚に重ねることはむずかしい。むしろ自分には、野生的、あるいはゲームの仮想空間的なものとして想像できるかなあ、と思いかけて、そうでもないと立ち止まる。例えば、自分が脚を怪我していたり、あるいは誰かを介護したりしながら移動するとき、とたんに可能なルートは減少する。それも道ができたり消えたりすることだと言えるだろう。
舗装された道 - 近代国家の道路と、山の中の道とを「地続き」のものとして観察してみる。そうすると、それは1日ごと、1時間ごと、一瞬ごとに変化していることに気づき、世界はずいぶんと柔らかく、もっと言えば脆いものだとも思えてくる。
さて、話は少し飛躍というかこじんまりとするが、大事なので記しておきたい。道ではないが、この「消失と出現」について、あの場所で作品を展示するときに、それはもっとも難しく、自分なりに方法を発明する必要があるとつねづね感じている。ここで指しているのは、作品の「消失と出現」。あの場所では、作品が、作品であったり作品でなくなったりする。
大和
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