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目と耳を洗う

5/17、3人で現地でのミーティングのため、東京方面から豊橋で飯田線に乗り換える。車窓からの眺めは初夏らしい緑の流れで、斜め後ろに座る、年老いた母と男性の親子の会話が自然の耳に入ってくる。自分のなかで沈殿する思考の流れに、車窓の風景と、知らない人の声が合流するなか、いくつもの孔の空いた自分の体をシートにもう一度深くうずめる。車内放送で、左の窓から長篠城趾をご覧くださいと案内されたら、あと少しで本長篠駅に着く。

前日までの雨で空気が洗われたのだろう、風景が明るい。私の裸眼の視力は0.1に満たないが、ここでは、ものがよく見えるという体感がある。目だけでなく耳もよくなる。見上げるとそびえる鳳来寺山の特徴的な岸壁は、松脂岩というガラス質の石でできており、そこに山々の鳥の声が反響するという。

以前、地下水の音を録ろうと、自宅の近所をレコーダーをもって歩いたことがある。音を録る道具を手にもつだけで(録音ボタンを押さなくても)、自分自身が驚くほど音に注意深くなり、普段聞こえてこない音にも気づけるようになった。道具は身体の延長で、機能を外付けしているわけだけれど、それを使うために人間じたいも変化する。
過去の展覧会のために何度も通った場所に、あらためて3人で来たのは、オンラインでは埒があかなかったというのもあるし、誰と歩くかで変化する感覚にも期待したからだ。一緒にいる人を道具というのは語弊があるが、感覚の延長という面で少なからず影響があると思う。もちろん私たちはちがう体をもつ。しかしその体には孔がたくさん空いている。

大和

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