フィルター
「これは大腿骨です。とてもしっかりとされていますね」「これが喉仏になります。形が仏様の姿に似ていることからそう呼ばれています」と言って、男性が箸先で小さな白い骨を拾い上げては、ゆっくりと骨壷におさめていく。人が物として残る部分は、なんて少なく、そして自然の石や砂に似ているのだろう。人は自然の一部というが、柔らかくあたたかな血と肉をもって生きている間は、自然とは一線引いてもいるのが人間であり、だからその骨の自然さには深く慰められる感じがした。
先日、親族の火葬に立ち会い、改めて身体という物のことを考えていた。作品は感覚に働きかけるもので、感覚と互恵的な身体のことを考えずに制作は成り立たない。そもそも、作品を直接つくるのはこの身体で、今日は動けないとなったらシャープペン一本も立てることができない。
そうだ、展覧会のステートメントに添えられた「情報と質量」という言葉のこと。これも私には大事な補助線になっている。例えば、情報が感覚に接触して、身体に反応がある。もしその情報が嘘であっても、身体に起こることは現実で、質量のあるものとなれば経験だと言える?そういう意味でも、嘘とホントの境はなくなる。でも、そもそも情報はその正誤に関わらず、いつも何かの/誰かのフィルターを通されていることを忘れやすい。伝達が容易な質量にすることで取りこぼされるものは可視化されない。正しければスカスカでもいい?そんなことないのでは。jpgデータに似ていて、ぱっと見は問題ないとしても。
自分で何かに直接触れることが、断片的であったり近視眼的であったりすることを重々承知の上で、その偏り、傾き、密度のムラから形を立ち上げる。情報と経験のグラデーションに身を置きながら、そうしたことができればいいなと思う。
大和
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