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ふつうの日記 2021.08.29『「不快なキャラクター」考』

・「不快なキャラ」

 昔遊んでいたゲームのAmazonレビューをうっかり読んでしまった。ああいうレビューは大抵文句を言いたい人が書いているから、普段はなるべく読まないようにしているのに。今日読んだのもそういう雰囲気のレビューがほとんどだった。不覚である。
 それらの文句レビューの多くが、「不快なキャラクターがいる」と書いていた。Amazon以外の通販サイトやレビューブログも覗いてみたけれど、やっぱりほとんどの人が特定のキャラクターを指して「不快」だといっている。その人たちによれば、そのキャラクターの存在そのものが作品の欠点らしい。「このキャラさえいなければ」という書かれようがとても多かった。
 そのキャラは確かにわがままで、筋の通った信念があるわけでもなく、たくさんの人が「こいつダメな奴だな~」と思うだろうキャラだった。だけど「こいつダメな奴だな~」と思わせるキャラって、存在してはいけないんだろうか。

 ちょっと前から、私はこのことについて考えている。上のツイートは主人公についてだけ言及したものだけど、これは主人公以外にも言えることだと思う。物語の登場人物は良い人で、悪役だとしてもしっかり信念がないといけなくて、自分勝手な行動や常識はずれの言動で読者を不快な気分にさせてはいけない。そういう雰囲気がなんとなく、でも確かにある。
 もちろん、「嫌いなキャラクター」ができることは悪いことではないと思う。そのキャラクターがどうしても嫌いで作品を見られない、というのは仕方ないことだ。だけど多くの人が同じキャラクターを嫌いになったとき、そのキャラクターが「作品の欠点」だと言われてしまうのはちょっと嫌だなぁと感じる。そういう話だ。

 たとえば『ドラえもん』。今『ドラえもん』が新作として発表されたら、おそらく「キャラクターが不快」だと叩かれるだろう。のび太はヘタレでわがままですぐ人に頼るし、ジャイアンは横暴で自己中心的ですぐ暴力を振るうし、スネ夫は嫌味で腰巾着ですぐ「ママ~!」と泣いてしまう。「こいつダメな奴だな~」だらけだ。先生ののび太への扱いとか家庭の雰囲気とかの時代的な問題をすべてクリアしていたとしても、「キャラクターが不快だから」と作品そのものを否定されてしまうのではと思う。
 だけど、のび太とジャイアンとスネ夫なしには物語は成立しない。出来杉くんにもしずかちゃんにもドラえもんは必要ないからだ。ダメなのび太が「ジャイアンに仕返ししたい」「スネ夫が羨むおもちゃがほしい」と願わなければ、『ドラえもん』の物語は始まらない。そして今ここにある『ドラえもん』は紛れもなく、名作だ。

 正直『ドラえもん』のたとえはちょっとズルくて、物語本編にそれほど関わりがない本当のサブキャラを擁護はできていない。でも言い訳しておくと、サブキャラの「不快さ」を排除することは、メインキャラの「不快さ」を排除することにも繋がると思う。「サブキャラが不快じゃダメならメインキャラはもっと不快じゃダメだろう」と、物語を作る側の人はきっと思うだろうし。

 なんだか変に有識者ぶったことを書いてすみません。ちょっと恥ずかしくなってきちゃった。でもこれを読んでくれたあなたが今後「不快なキャラクター」に出会ったときには、この日記を思い出してくれたらいいなぁと思います。


・じゃがりこ

 じゃがりこが……じゃがりこが食べたい。でもずっと胃の調子が悪い。じゃがりこが……胃が……じゃがりこ…………。


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