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汝、生命たれ。〜「創刊」を読んで〜
友人が雑誌を出した。雑誌といっても紙媒体ではなく、ここ、noteの記事という形をとったものである。数名のライターを呼び、かなりそれらしいものになっていた。
で、今回はその感想という体で強めの思想を綴ろうと思う。思想が強すぎると思った方向けに、何も考えずに書いた記事を用意したので適宜避難いただきたい。
■創刊すること、作ること
まずはこの雑誌の感想を真っ直ぐ書きたいと思う。
私はまず第一に、こうして人を集めて、記事を貰って、創刊に至った事を称賛したい。
初めはただの思いつきだったかもしれない。しかしそれを形にする事の大変さは自分も知っているつもりだ。特に他人を巻き込むというのは大変である。自分の歩みだけでは完成に至らないもどかしさや、作り上げるものについて意見が衝突した時の辛さが、創作の手を止めさせる。
これを乗り越えて形にできる人物は、よほどのカリスマ性があるか、かなり図々しいかのどちらかだ。まあ友人がどちらなのかは置いておいて、ただただこの苦難を乗り越えて創刊したことにブラボーと言わざるを得ない。
■ウィーアーインターネッター
それでは記事への感想に入ろうと思う。まずはkensvelt氏の『ポストインターネット老人会論考』である。
簡単に言えば、ネット使用者の高齢化について。今後の近未来予想を踏まえて、のうのうとインターネットを貪るz世代に警鐘を鳴らす。
「インターネット超高齢社会」の到来に向けて、我々は何をすべきか?現在すでに進行するメディア機能のインターネット一極集中。その更なる過激化というビジョンには、もはや無視できない説得力がある。
インターネットネイティブ世代に最適化された社会という未来予想図には、インターネットユーザーの一人としてドキッとさせられた。自分たちの縄張りがいつか奪われる嫌さ。ブレーキランプを5回点滅させ、『逝ってよし』のサインを送りたくなった。
■約束された細胞死
次に編集長makiの『生命体インターネットの老後』。
kensvelt氏に続いてこれからのインターネットを考える記事だ。しかしその視点はまた独特で面白い。
彼の得意分野である建築論から展開させ、インターネット世界を一つの生命と見る。ユーザー一人一人がその細胞であり、世代交代とは新陳代謝であるとする彼の夢見るインターネット像とは、ユーザーによるコンテンツの生産と消費の絶え間ないサイクルだと言う。それは流動的でなくてはならず、成長し続けなくてはならないのだそうだ。
我々は生命体を構成する細胞として、常に勤勉たる事が求められる。いずれ死ぬまでそうあるしかない。読むにつれて、自分がインターネット上で発信する責任について考えさせられた記事だった。
■老いを負いて若葉生ふ
最後はteto氏の『2025高齢者問題に向けて』。
現代日本を語る上で無視できない高齢化問題。しかし若者にとっては、とくに10代にとってはまだ他人事のように思ってしまうだろう。だからこそそこにメスを入れ、先の二人とは別の視点で老いゆく我々を論じる。
介護の在り方を論じる上でよく挙げられるのが、介護職の決して良いとは言えない労働環境とそれに伴う人手不足。この問題が発生してしまった原因として、法律遵守の不備を説く筆者の切り口には意表をつかれた。
せっかく法改正により追加された尊厳保持の文言はしかし、現実にはほぼ無視されていた。介護される側の多様性の尊重という、次世代のスローガンを打ち出したこの記事は、まさにこれから高齢者を背負い、そしていずれ高齢者として背負われる若者に広く読まれるべき記事だと思う。
■汝、生命たれ
というわけで、一通り記事への感想を述べさせていただいたところで、今回私が読みながら考えた事を書いていこう。ここからは思想がだいぶ強いので、不快感や違和感や失望を感じる前に避難することをお勧めする。
私が思ったこと、それは、人類の『非生物化』が進んでいるな、ということである。
これは常々考えている私の生きていく上での一番のテーマであり、それを今回の『創刊』が強く刺激してくれた。
makiやkensvelt氏の記事は、主にインターネットについてだった。とくにmakiの記事に於いては、我々がインターネットを構成する一員としての責任が生じるとしている。
「自分がユーザーでなくなったらもうどうでもいい」という心構えは積極的に捨てようという話だ。
自分がインターネットユーザーでなくなる時とはいつなのか。もはやこれからの未来においてはそんな日は来ないのかもしれない。kensvelt氏の言うように、老人ホームでも掲示板に書き込みをしているのかもしれない。
現に社会の様々な機能をネット上に移行しようという運動は方々に存在し、VRなどの開発によって現実までもが電脳へ移動していく。それに前後して、人間のヴァーチャル化も進んでいる。
これは人類が次の段階へ進むための偉大な一歩とも言えるだろう。しかし、電脳化が究極に達し、電気信号によってのみ「人間」が定義付けられるような社会がもしやってきたなら、それは人類の進歩という言葉ではもはや片付けられない。
インターネットの細胞として、0と1の羅列に形取られた「人間」が登場したその瞬間、正に人類は敗北するのである。
生物の種を分ける基準として、個体同士で生殖可能かどうか、というものがある。上記したような電子情報上にのみ存在し自己を確立した人間(仮に『電脳人間』と呼ぼう)たちと現存するヒトは、おそらく交配不可能だろう。要するに何が言いたいかというと、このような電脳人間の登場は、まさしく進化による種分化であり、種間競争の始まりである。そうなった時、我らホモ・サピエンスは、今のままで彼らに勝利し得るのだろうか。
ここまで述べたのは現在のインターネット一極化が本当に極端に進んだ場合のシミュレーションであり、ただの妄想に過ぎない。
しかし、人類が今この時も衰退の一途にあることは確かだ。文化的に成熟した、先進国と呼ばれる共同体において、不気味に出生率が下がる事は何を意味しているのだろう?人類の進歩が、もう限界に来ているのではないか?我々はここで今一度、自らの内にある原始の声に耳を傾ける必要がある。
ヒトが直立二足歩行をするのは何故だろう。従来の生息地を離れ、競争を避けて安全に生存するためだ。森林というライバルの多い激戦区を抜け、草原へ進出したからこそ獲得した特徴だ。
ヒトが頭脳を大きくしたのは何故だろう。他の生き物にできないことをすることで、強かに生き残るためだ。
ヒトが群れで暮らすのは何故だろう。生存率を上げるためだ。群れを作る事で、捕食者の襲撃を耐え、効率よく餌を採ることができる。
このように人類は、ただひたすらに生きようとしてきた。では、何故我々はそうまでして生存を渇望したのだろう。それはずばり、繁殖のためだ。
生命体とは自己複製を行う有機体であり、それが単為生殖であれ有性生殖であれ、自らの設計情報を別個体として残そうとする。その連続の上に我々人類がいる以上、育児の資金を確保できないからと出産を諦めるなどと言うことが自然なことであるわけがない。よっぽど初対面の女性と性交を繰り返す間男のほうが生物的に正しいかもしれない(こいつもまた生物として間違っていると私は思うが)。本来子供を作ることは、DNAの螺旋に運命付けられた使命ではなかったのか?
人類は、自ら築いた文化や社会や道徳によってその使命を阻害している。なればこそ、我々がさらに進歩する為に、繁殖も含めた生物としての本能をもっと尊重するべきだと私は思う。そこで私は提唱する。
汝、産み、殖えよ。ただそのために生きよ。本能こそが汝を生存へと導くだろう。
汝、死に絶えよ。淘汰を受け入れよ。有機体的輪廻に身を任せ、群れのために死にたまえ。
人類が今後も万物の霊長である為には、まず安定して子を為し、世代交代をせねばならない。安定して世代交代ができるからこそ我々は進化できる。そして何より、生殖への固執こそ生存の意思を強固にしてくれる。
それと同時に、古い世代は自然なタイミングできっぱりと死ななければならない。自力で生きる力を失った個体は、普通自然と死んでいく。無理に延命させることは、道徳的だが効率的でない。またそれは老いに限らず、環境的に生存が難しい場合においても適応される。そうして群れの維持コストを下げるのだ。下げたコスト分で豊かに暮らすのだ。増えすぎた人類が地球上で暮らすには、生存に適さない個体が自然淘汰によって死ぬ必要がある。
汝、人に非ず。汝、生命たれ。
人類が野生へ帰るときは、今だ。
■終わりに
自分でつらつらと書いていて吐きそうになった。よくもまあ下手な文章をここまで書いたものだ。もう二度としないと誓おうと思う。
生まれたばかりのクジラは、人々を導く先導者となれるのか。今後の編集部クジラに注目である。
それではこの辺りでお暇させていただきます。
みんな、
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