あじさいの山〜栃木太平山〜
太平山に登ったのは6月のことであった。関東ではそろそろ梅雨入りの時期である。
梅雨を目前にし、私にはひとつ挑戦してみたいことがあった。雨の中の山行だ。
それまでの登山は雨予報の日を避けていたし、山行中に降られることも幸いにしてなかった。しかしいずれは必ず降られる。
ある日突然そういう目に遭うよりも、まずは雨天を前提に山を登ってみたかったのである。
雨。梅雨。梅雨といえばあじさい。あじさいの植わった山なら、雨の中でも風情のある登山を楽しめるのではないか。
調べてみれば、栃木県の人気の里山であじさいの見事な山があるらしい。その名も太平山という。
秋田太平山は「たいへいざん」と読むが、こちらの太平山は「おおひらさん」と読むそうだ。読みの違いはあるものの、同じ名前の山に続けて登るのも面白い。
私は雨の日を狙って栃木太平山に登ることにした。
私が住む埼玉県のこの辺りは、交通の便が大変に良い。自宅からは四つの鉄道路線が使え、そのうちのひとつは栃木へのアクセスを容易にする。
結婚して住むようになったこの街に特別な愛着はなかったものの、山を始めて、奥多摩にも秩父にも栃木にも行きやすいことが分かると俄然ありがたみを感じるのである。
なお、私は運転免許を持っていない。後に主人も登山を始めるので一緒に登る際には車を使えるが、今も昔も基本的には電車・バスでの移動である。
さて、太平山に登るその日は朝からしとしとと雨が降っていた。
最寄り駅に降り立ち、さすがに町中を傘も差さずに歩くのは少々恥ずかしかったのでしばらくは折りたたみに頼り、登山口でレインウェアに着替えた。ザックにもカバーをかけた。
雨を覚悟の山行であるから「うわ〜、降ってきた〜」などの憂鬱はない。寧ろ初めての経験にわくわくしながら登り始めた。
気づいたのは、樹林帯ではあまり雨が落ちてこないこと。もちろん雨の程度にもよるが、しとしとくらいなら木々がかなり軽減してくれる。
そして雨天の樹林帯は白くけぶり、神秘的でとても良い。太平山は山頂に神社を戴く霊山であるからイメージとしてもぴったりだ。
道中には神社だけでなくお寺もある。そこで早速あじさいを拝めた。
やはり雨中にあじさいは色彩が映えて美しい。何なら雨に降られるお寺も雰囲気があって少し怖いくらいである。
そこから本格的な登りに入ったが、濡れた岩場はつるつる滑って集中力を要する。とはいえそれほど危険な箇所もなく、無事に太平山神社のそばまで辿り着いた。
先ほど山頂に神社を戴くと書いたが、正確には山頂にあるのは奥宮で、本殿はその直下の開けた場所にある。
やや観光地化されており、茶屋の並ぶ一角もある。ここでは太平だんご、焼き鳥、卵焼きという太平山三大名物が饗されるそうだが、平日のその日開いている店は一軒もなかった。
後に得た私的な知見では、山行とあんこは大変相性が良い。あんこをたっぷり乗せた太平だんごは、いつか必ず試したい山グルメである。
雨の平日とあって参拝客はまばらだ。カップルが一組と女性が一人。
このカップルがやりおるというか、晴れていてもそんなに登る人がいるのかと思う奥宮までの山道を、私の後から傘を差して登って来た。
そのとき私は失礼ながら奥宮の軒先にお邪魔して昼食を摂っていたのだが、まさか人が来るとは思わずもじもじしてしまった。
山頂でおにぎりを食べることも、雨の中傘も差さずにいることも、登山者であれば普通のことなのだがそれを一般の観光客に見られるのを居心地悪く感じてしまったのである。
この人こんな雨なのに(その頃には本降りになっていた)ひとりで何やってるんだろう、とか思われているのではないか。自意識過剰もいいところだが私はそういう性格である。
努めて平静を装っているうちにカップルは下り始め、少し間を置いて私も後を追った。
そこからが仰天で、雨に濡れた滑りやすい山道をカップルはすごいスピードで下って行くのである。傘を差し、女性に至っては踵の高い靴を履いていた。
急な下りであるからある程度勢いがついてしまうのは分かるが、時折何かを跳び越えすらしながらぐんぐん下っている。
一方の私は両手を空け、靴もしっかりした登山用のものを履いているというのに、滑るのが怖くてゆっくりとしか進めない。決して悪いことではないはずだが、自分はもしかして人並み以上に臆病なのではないかと情けなく思った。
それなりに経験を積んだ今でも、難所を通過する私のスピードは亀のようにのろい。ただ今と当時で違うのは、それを恥じることがなくなったという点だ。
人それぞれ運動神経も肝の据わり方も違う。人より劣っているように思えてもそんな自分を受け入れ、自分なりのスピードで焦らず進めば良く、それを許してくれるのが登山なのだと思っている。
ただし下山時間のリミットを脅かさない程度で、だ。
神社の参道を下りに採った。石段の両脇は見事なあじさいの群生である。
昼を過ぎて、その近辺にはあじさいを見に来たのであろう参拝客が増えていた。ささやかなざわめきが耳に心地良い。
彼らの邪魔にならない程度に足を止め、たわわに咲き誇るあじさいを堪能する。
雨天の山行とあじさい、ふたつの目的を達成できた良い一日であった。
ちなみにこの翌年、私はもう一度太平山に訪れている。その日は特に雨を狙ったわけではなかったが、途中からひどいどしゃ降りに遭った。
従って私には、太平山は雨の記憶しかない。人気だという謙信平からの絶景も拝んだことがない。
次回太平だんごを食べに行くときこそは、と思ったりもするが、太平山とは雨の縁があるという思いつきは面白く、晴れたらもったいなく感じてしまうかもしれない。