気になる放送のことば──「のようなもの」
放送局に勤務していながらこんなことを書くのも何ですが、放送に使われる言葉でどうもしっくり来ないものがあります。
傷害事件などのニュースで使われる「刃物のようなもので」というのがそのひとつです。
のようなもの
それは、被害者が凶器を見ていなくて、事件の目撃者もおらず、犯人も凶器を持ったまま逃げてしまったなどの理由で、当然記者もそれが刃物かどうか確認できないという場合に使われます。
その心構えは解らないでもありません。実際に見てもいないのに「刃物で切りつけられ」などと断定した原稿を書くのは、公正を期すジャーナリストの立場からするとあるまじきものなのでしょう。
しかし、一方でそれを「刃物のようなもの」と言われると、どうも私には違和感が残ります。
切られた傷口からは刃物と推定されるけれど、証拠がなく刃物と断定できないので、とりあえず「刃物のようなもの」と言っておくのは正しいように見えて、実は「ような」とすることによって別のニュアンスが加わってしまうのです。
「刃物のようなもの」と言った途端に、「うーん、刃物に似てはいるけど、刃物とはちょっと違うんだよなあ」とか、「まあ喩えるとしたら刃物みたいなものかな」とか、もっと極端な場合には「世間がどう言うかは知らんが、俺はそんなもの刃物だとは認めないぞ」みたいな意味合いが出てきてしまいませんか?
の・ようなもの の ようなもの
森田芳光監督に『の・ようなもの』というタイトルの作品があります。彼の35mmデビューにして、一躍世間に名を知らしめた作品です。
このタイトルには、「本物ではなく、あくまで『の・ようなもの』にしかなれない自分」に対する失望感やコンプレックスが上手に込められています。
そういう意味では、『の・ようなもの』以来 16本の森田芳光監督作品に助監督や監督補としてついていた杉山泰一が、自分の監督デビュー作に『の・ようなもの の ようなもの』というタイトルをつけたのは、師匠に対する尊敬とオマージュと自らの謙虚さをすべて表した見事な技だと思いました。
の・ようなもの
映画『の・ようなもの』の主人公・志ん魚は落語家ではありますが、まだ一人前とは言いがたい腕前です。それを演じていたのが若いころの伊藤克信で、彼の滑舌の悪い、栃木弁丸出しの、つっかえつっかえの喋り方が、如何にもそんな感じでした。
ソープ嬢の秋吉久美子や女子高生の麻生えりかを好きになっても、なんとなく本物の恋愛っぽい感じに近づけません。
そういう自分と、自分の未来への不安を抱えたまま、ラスト・シーンで、志ん魚は深夜の堀切から明け方の浅草までの道をとぼとぼと歩きます。明けてきた時の画面の色鮮やかさを私はいつまでも忘れません。
閑話休題。
つまり、「のようなもの」と言ってしまうと、そんな風に「本物ではない」というニュアンスが出てしまうのです。
再び「のようなもの」
私はニュースを見ながら時々ひとりごちてしまいます。「そんなもん、刃物で切ったに決まってるだろ」と。
では、どういう表現がより正確なのでしょうか?
私は「刃物のようなもので切りつけられ」を「刃物で切りつけられたようで」とするのが良いのではないかと思います。そうすると「刃物」周辺の曖昧感が拭われます。一方で、最後に「ようで」がついているので断定はしていません。
ただ、この場合の欠点もあります。「刃物で切りつけられたようで」などとニュースで言うと、必ずこういう苦情電話が局にかかって来るでしょう:
つまり、今度は「ようで」が「切りつけられた」の本物感を削いでしまうのです。「えーっとぉ、なーんか切りつけられたみたいでぇ」みたいな、ちょっとふざけた喋り方に思われてしまう可能性もあります。
視聴者センター員が、「いや、『ようで』は『切りつけられた』だけに掛かっているのではなく、『刃物で切りつけられた』全体に掛かっており、つまり、事件の現場を目撃したわけではないですが、そのように推察される、との意味でして」などと弁明しても、どれだけの視聴者が納得してくれるものか、甚だ自信がありません。
ならば、どう書けば良いか、ということについて現時点で私に名案はありません。
「刃物状のもので」と言えばすっきりするのでしょうが、「状」という言葉が耳で聞いて分かりにくいために、この手の音読みは放送の言葉としてはふさわしくないとされて来ました。
「刃物で切られたと推察され」などという表現も、同じく「推察」という耳で聞いて分かりにくい、堅い漢語が使われているので避けられたのだと思います。
しかし、考えてみれば、「切られた」のであれば、その道具は概ね刃物であるはずです。角材や金属バット、ヌンチャクや拳銃で切られたはずがありませんから。
それでも断定しないのがジャーナリズムの「公正」なのでしょうか? 私にはそれは「公正のようなもの」としか思えないのですが。