見出し画像

大和の豊かな言い回し(全6章)

知人へのメールの冒頭に「お申し越しの件」と書いたら、「最近の若い人はきっとお申し越しなんて言葉知らないでしょうね」という返事がきました。確かにそうでしょうね。

「お申し越し」って解ります? 英語で言うならオファーですよね(こんな言葉のほうがよく通じたりする不思議!)

実は私は最近意識してこの手の言葉を使うようにしています。

「この手の」とは何かと言いますと、やまと言葉の動詞2つを重ねて作った動詞、もしくはそこから転用した名詞です。

自分の語彙を増やそうとするとどうしても漢語ばかりになってしまいがちです。ただ、漢語は改まった感じがあって使い道が少し狭いような気がするのです。

例えば本を読んで「千里の径庭」とか「圭角」などということばを憶えて、憶えたからにはちょっと使ってみたいと思うのですが、これはかなりのビッグ・ワードでとてもじゃないけど会話の中に入れられるものではありません。

その点、やまと言葉同士の合成語ならもっと気軽に使えるし、実際色合いもかなり豊かになります。

どんなものか例を挙げてみましょう。やまと言葉同士の合成動詞は意外にたくさんあるのです。

「お申し越し」「思い上がる」「言い交わす」

例えば「語り明かす」とか「語りつくす」とか。

でもその構造を見るとこれらの合成語はあまり魅力的なものではありません。

「語り明かす」とか「叩きのめす」とかは単に「語って(夜を)明かす」「叩いてのめす」という単純な接続だし、「語りつくす」とか「言い損なう」とかは「語るという行為を尽くす」「言うという行為を損なって(失敗して)しまう」という目的語と動詞の関係で、いずれにしても色気も面白味もありません。

ところが、たとえば冒頭に挙げた「お申し越し」のように、「申す」系には豊かな表現がいっぱいあって、

申し入れる
申し受ける
申し送る
(お)申し越し
申し込む
申し立てる
申しつける
申し出る
申し開き

など、「言う」の謙譲語「申す」+別の簡単な動詞でどうしてこれだけ多彩な意味合いが出せるのか不思議になるくらいです。そう思いません? 「申し開き」がどうして「弁解」の意味になるのか、不思議である一方でなんか魅かれませんか?

同じく「思う」系もきわめて多彩な展開が可能で、

思い上がる
思い当たる
思い余る
思い入れ
思い起こす
思いがけない
思い切る
思い込む
思い知る
思い立つ
思いつく
思い出す
思い出
思い直す
思い残す
思い迷う
思い乱れる
思い巡らす
思い煩う
思い侘びる

どうです? 手垢のついた「思い○○」もあるけど、とても新鮮で表情豊かな「思い○○」もあるでしょう?

他にも、たとえば「言う」系なら、

言い当てる
言い置く
言い固める
言い交わす
言い暮らす
言いくるめる
言いこなす
言い込める
言い渋る
言い知れぬ
言いそびれる
言いつかる
言い繕う
言い募る
言い習わす
言い抜ける
言い逃れる
言い残す
言い放つ
言い含める
言い寄る
言い回し
言い渡す

等々。

「(結婚の)約束をする」と言わずに「言い交わす」なんて言うとちょっと粋じゃありませんか。「言い交わした相手と添い遂げた」なんて、もっと粋じゃないですか。「婚約」とか「結婚」とかいうことばが全く出てきていないのに、ちゃんとそういう意味を表しています。

そう日本語の中には、そしてやまと言葉の中にはこういう言葉、2つのシンプルな言葉が結びついて、しかも両者の足し算では絶対に出て来ないような意味が生まれる表現がたくさんあるのです。

ま、これはある意味、英語における idiom に当たるもので、どうして give + up で「降参する」になるのか分からないのと同じような気もしますが、日本語のほうが情緒に富んでいるように思えるのも確かです。

今回はこれ以上例示はしませんが、あと「見る」系なんかもバラエティ豊かです。ほかにも自分で探してみてください。これほど色々な「言い回し」があったのか、と正に驚くばかりです。

知ること、驚くこと、なるほどと思うこと、そして真似てみること──「豊かな日本語」なんてものは存外そんなところから実現できるのではないでしょうか。

「読み飛ばす」「見合わす」「聞き置く」

前章で取り上げたのは「申し込む」とか「言い交わす」とかいう表現でした。この手の表現の面白さは、2つの組合せによって、それぞれが元々持っていた意味とは微妙に違う意味が出てくるということです。

「言う」の謙譲語である「申す」と、「中に入れる」というニュアンスの「込む(込める)」が合体して、エントリーの意味になります。前の時にも書きましたが、こうやって英語を持ってきたほうが簡単に説明できるところが現代の言葉の特徴なのでしょうが(笑)

まあ、「言って入れてもらう」というという感じでしょうか? いや、「入れる」ではなく「容れる」なのかもしれません。容認してもらう、あるいは聞き入れてもらう感じかな?

などと言っていると、今度は「聞き入れる」という新たな例にぶつかります。日本語を考える面白さって、こういうところにあるような気がします。聞いて聞きっぱなしにするのではなく、聞いた上で入れる(容れる)から「許可する」という意味になるのでしょう。

「言い交わす」の場合は、これまた英訳させてもらって申し訳ないですが、say to each other ですから、本来的には何を言っても良いはずなのですが、これがいつの間にか「結婚の約束を交わす」という意味に限定されて来ました。そういう変化を辿るのも言葉を考える面白さです。

こういう単語の成り立ちって非常に興味深いと思いませんか?(「成り立ち」も却々風情のある表現です) でも、必ずしも全てがこんなに風情があるわけではないのです。例えば「突き飛ばす」と言えば、相手を突いて、突くことによって飛ばすという単純な結合なのです。

しかし、「読み飛ばす」と言った場合は、本を読んで、その本をどっかに飛ばしてしまうことではありません。読みながら内容を飛ばして行くことです。「読む」という言葉と、読んでいないことを表わす「飛ばす」という言葉を平気でくっつけて、読んでいるようないないような状態を非常にうまく表していると思います。

「見合わせる」も「見て何かを合わせる」という意味ではありません。なんでこれが「やめておく」という意味になるのでしょう? そういうことを推理するのも言葉を考える上での醍醐味です。

「やめておく」と言えば「止めて」「措く」ことで、自分ではやらないということですが、これが「放っておく」となると、勝手にやらせておくという意味になります。これが「捨てておく」となるともうちょっと嫌らしい感じがします。

さらに、これが一語に結合短縮して「捨て置く」となると、まあ前半が縮まっただけで語感が一層厳しくなります。明らかにやっている人間に対する軽蔑や嫌悪が込められています。

しかし、同じ「~置く」でも「聞き置く」となるとこれは拒絶ではなく、「聞くだけ聞いて自分の考えは述べないでおく」という微妙な感じに変わってきます。「聞き入れる」と「聞き置く」の微妙な違いをじっくり聞き比べてみてください。

日本語って、どうしてこんなに微妙な感じをうまく表わす言葉が豊富なのでしょうか? 「言い得て妙」とはまさにこういうことなのではないかと思います。

「持ち切り」「持ち重り」「持て余す」

今まで知らなかったことを知った途端に、今まで気がつかなかったその実例が次々と目に飛び込んできたりすることがあります。例えば、救命救急講習を受けた途端に街じゅうにある AED に気づくみたいに。

やまと言葉同士の美しい合成語について考え始めたら、それが引き金となって、私の前に、今まで全く意識せずに使っていた豊かな結合動詞が続々と現れてきて、どんどん続編が書けてしまうのです。

この章では「持ち」で行きましょうか。

例えば「持ち合わせ」。どうして「持つ」+「合わせる」で「たまたま(一定の金額を)持っている」という意味になるのでしょうか? こういうことを考え始めると不思議で止まらなくなります。

恐らくこの「合わせ」は「抱き合わせ」などの「合わせ」ではなく、「たまたま」という意味合いを加えるものなのでしょう。「居合わせる」とか「有り合わせ」などという表現がそれに近いのではないかと思います。

それから「持ち重り」。この表現はご存知ですか? 「持ち重りがする」という使い方をします。

漢字を見れば意味は想像がつくのですが、その構造が面白いと思います。「重い」ではなく「重りがする」のです。それは客観的に重いかどうかを言っているのではなく、持っている人がその重みを感じるということを表しています。

で、単に「持ったら重い」という意味かと言えばそうではなく、「最初はそれほどでもなかったのに、持っているうちにだんだん重みを感じてくる」というものすごく複雑なニュアンスのある言葉なのです。こういうところが日本語の深さを感じさせてくれます。

今、日本語の深さと書きました。しかし、そういう深さ、不思議さは英語にはないかと言えばそんなこともありません。例えば take や get や give などという基本的な動詞が副詞を伴って熟語化した場合の不思議さが、この日本語の結合動詞の豊かさに通じるものではないでしょうか。

実例を挙げれば take over とか get away with とか give up とか、知らなければ簡単に想像つかないのに、でも意味を聞いてしまうと何となく納得してしまう、そんな広がりが英語においてもあるような気がします。

閑話休題。元に戻って、もう少し「持ち」の例を挙げましょう。

例えば「持ち崩す」「持ちかける」「持ち切り」「持ち越す」「持ち直す」なんてのは、前にも挙げたたくさんの例と同じく、なんでこんな単純な動詞を2つ繋いだだけで違う意味が出てくるのか、考えれば考えるほど言葉って深いと思います。

「持て余す」も同様ですが、この場合「持ち」ではなくて「持て」になります。同じく「持て」になる例としては「持てはやす」があります。何故「持ち」ではなく「持て」なのかは分かりません。

それから「持ち腐れ」。こっちのほうは「持ち」は「持ち」なのですが、下のほうが「腐り」ではなく「腐れ」です。意味の方は比較的そのまんまですが「持っていて腐る」と言うよりは「持ったまま腐る」という感じです。そして「くされ」ではなく「ぐされ」と濁ることによって、軽蔑したような語感が出てきます。

もっと意味の想像のつきにくい、それ故深い表現としては「持(ち)送り」というのがあります。これは日本建築の用語で、「棚や横木などを支えるための、装飾を施した木」のことです──などと言われても何のことか想像がつかないでしょうから、「持送り」で画像検索してみてください。すぐに「ああ、これか」と納得が行くはずです。

どうです? 面白いでしょう?

日本語には他にもこんな例が山ほどあります。

みんなで持ち帰って、持ち場を決めて、いろんな例を持ち寄ってみては如何でしょうか? この話題で持ち切りになるかもしれません。

「見初める」「見限る」「見せしめ」

「大和の豊かな言い回し」という共通テーマで3章に亘る文章を物してきました。

やまと言葉を2つ連ねた言い回しには、外来語や漢語のようなビッグ・ワードにならず、しかも深い意味合いを豊かに表現することができるというメリットがあるのです。

例えば「添い遂げる」が「そばにいて達成する」という意味ではなく、「さまざまな障害を乗り越え、遂に思いを通して結婚にこぎつける」という意味になるところを見れば、その豊かさと深さを解っていただけると思います。

最初に書いた時には、「申す」系、「思う」系、「言う」系の合成語を取り上げました。そして、次の章ではそういう絞り方はせずに、「申し入れる」「聞き入れる」「捨て置く」「聞き置く」といった表現を取り上げました。

そして、3つ目の章では再び系統を絞って「持つ」系を取り上げました。

今回はまた違う例として、「見る」系を収集してみました。

上で「添い遂げる」という例を挙げましたが、昔の恋愛に関する言葉にはこのような情緒溢れる表現があまたあります。例えば「見初める」なんてのはどうでしょう?

「初めて見る」んじゃないですよ。いや、そもそもこれを「みそめる」と読んでくれてます?(「みはじめる」じゃないですよ)──これは「一目見て好きになる」という意味です。なんとしっとりとした表現でしょうか!

同じ「見る」にしても、見方は山ほどあって、「見やる」「見つめる」「見交わす」「見守る」「見定める」など、ニュアンスの多彩さには目を見張る(これは「瞠る」とも書きますが)ものがあります。

少し矛盾を感じさせる合成語もあり、例えば「見過ごす」「見落とす」「見逃す」などは、「見る」という表現を使いながら実はあまりちゃんと見ていないということを表しています。

「見るのは見ているのだけれど」あるいは「一旦見るには見たけれど」という裏腹な感じの単語としては、他に「見殺し」や「見限る」「見切る」「見放す」などがあります。

見るのに失敗した表現もたくさんあり「見間違う」「見誤る」「見紛う」「見損なう」などがそうです。

似たような意味でたくさんあるこれらの表現のニュアンスの違いを考えるのも面白いですね。

また、「発見する」よりも「見つける」「見出す」、「看破する」よりも「見抜く」「見通す」「見破る」、「調達する」「選定する」よりも「見繕う」と言ったほうが、柔らかく、しかし、そこはかとなく深い表現になると思いませんか?

「見返す」というようなとても単純な合成語が、どうして「昔あなどられた相手に、立派になった姿を見せつける」という複雑な状況を表すことになるのか、その辺を考え始めると、日本語はますます魅力的な言語に見えてきます。

「見せつける」もそうですよね。「見る」系ではなく「見せる」系にも大和の豊かな言い回しはたくさんあります。

見せかける
見せつける
見せびらかす
見せしめ

面白いなと思うのは「見せしめ」です。これは「見せる」+「締める」ではないんですよね。「しめ」は使役の助動詞「しむ」の連用形です。つまりこれは元々「見させる」という意味なのです。

誰に見させるか?──大衆や家来などに。何を見させるか?──権力に楯突いた者の哀れな末路を。何のために見させるか?──権力の絶大さを示してひれ伏させるために。

説明がこんなに長くなるということが、ひとえにその言葉の深い味わいを表していると思いませんか?

少し長くなりました。次回は「立つ」系を取り上げてみたいと思います。

「立ち入る」「立ち行く」「立ち居振る舞い」

さて、今度は「立つ」系のやわらかい日本語を取り上げてみたいと思います。

「立つ」は本来 stand up です(いつも言うように、こうやって英語に置き換えたほうが意味が明確になってくるのは、すでに私たちが英語に毒されてしまっている証拠かもしれませんがw)。

この stand up をもう少しくっきりと表しているのが「立ち上がる」です。これは、文字通り立った結果ポジションが上に来たということであって、この場合の「立つ」は本来の「立つ」、言わば stand up 系本流の「立つ」です。
しかし、これがいろんな用言と結びつくことで元の意味は薄れて、他の意味合いを付け加えて行くのです。

例えば「立ちふさがる」は立つことによって相手の進路に塞がる(相手の進路を塞ぐ)ことですが、「立ちすくむ」は立つことによってすくむのではなく、立ったまま動けなくなってしまうことで、stand up の持つ能動性は少しだけ薄れます。

「立ちふさがる」「立ちはだかる」「立ち込める」などの「立ち」には、やや接頭語めいた、語調を整えたり意味を強めたりする働きがあるようにも見えます。つまり、「立ち」のない「ふさがる」「はだかる」「込める」でも意味内容はそれほど大きく異ならないのです。

「立つ」という単純な動作を表す動詞が、何かと結びついて比喩的な意味になるのも面白い用法です。

「立ち入ったことをお聞きしますが」と言う時の「立ち入る」には「立つ」という意味も「入る」という意味ももはやありません。ただ、他人のプライバシーを侵すという意味なのです。

「立ち回る」もそうです。直接的な stand up や go round ではなく、動き回って上手くやるという抽象的な意味に転じています。

他にも「立ち直る」「立ち行く」「立ち後れる」など豊かな表現がたくさんあります。

「復旧した」「回復した」などと言うよりも「立ち直った」「持ち直した」のほうが心情に訴える表現になるのはこれまで何度も書いてきたことです。 「対抗する」や「挑戦する」よりも「立ち向かう」のほうがイメージが膨らみませんか?

そして、「立ち上がる」が非常に即物的な表現なのに、「立ち上げる」になった途端に「起動する」や「設立する」という難しい概念を表すようになるようなところも面白いとは思いませんか?

あ、確かに「立ち上がる」にも「行動を起こす」という抽象的な意味がありますが、逆に「立ち上げる」のほうには即物的な意味がないところが面白いと思いませんか?

ところで、「立ち」の関連で言うと、最近とても気になるのが「立ち振る舞い」という表現。最近とてもよく耳にするのですが、これ、本来は「立ち居振る舞い」なんですよね。

「居る」は古語で、今の意味とは違って「座る」という意味です。つまり「立ち居」で「立ったり座ったり」、即ち「挙措」「挙動」のことです。「振る舞い」も同じような意味合いのことばですから、その2つが合わさって「立ち居振る舞い」という表現ができました。

大和言葉本来の豊かさに立ち返って、日本語を捉え直してみるのは愉しい作業です。言葉遣いも含めて、自分の立ち居振る舞いを再チェックしてみては如何でしょうか?

「見苦しい」「聞き苦しい」「寝苦しい」

ここまでの5章で、やまと言葉を2つ連ねた言い回しが如何に彩り豊かなニュアンスを与える表現かということを書いてきました。

これまでは動詞+動詞の形のものを主に取り上げてきました。

例えば「お申し越し」などの「申す」系や「言い交わす」などの「言う」系、「聞き入れる」などの「聞く」系、「持ち重り」などの「持つ」系、「見繕う」などの「見る」系、「立ち入る」などの「立つ」系などです。

今回は少し趣向を変えて、動詞ではなく形容詞「苦しい」系の例を並べてみようと思います。

「苦しい」と言うからには、肉体的に辛いわけです。例えば「胸苦しい」は「胸が苦しい」ということ。この場合「胸」は「むな」になります。

胸が苦しいとはつまり息ができなかったりするわけで、それを「息苦しい」とも言います。「胸苦しい」は苦しい場所、「息苦しい」は苦しい動作なので、少し構造は違いますが、いずれも「○○が苦しい」ということで、これらは特段趣が深い表現ではありません。

ただ、「胸苦しい」は必ずしも呼吸器系の異常や疾患ではなく、もう少し精神的なものを表す場合にも使える表現で、失恋などで失意のあまり「胸苦しくて眠れない」などとも言えます。

「胸」に対して「耳苦しい」というのもありますが、これなどはまさに肉体の症状として耳が痛いのではなく、「聞くに堪えない」ということです。

それ以外に体の一部分がついた「苦しい」はあまりありませんが、動作+「苦しい」の例はたくさんあります。

例えば「見苦しい」や「(お)聞き苦しい」など(この辺から少し趣が出てきたと思いませんか?)

見苦しいは、ま、確かに「見るのが苦しい」と言い換えられなくもないですが、「見るのが苦しい」と言うよりも、むしろ「苦しくて見ていられない」ということです。「聞き苦しい」も同じです。

見たり聞いたりするのは、本来苦しいはずがありません。それが苦しい、苦痛だという表現になるのは、如何にそれ(=見たり聞いたりする対象)がひどいかを表すためなのです。

「見苦しい」も「聞き苦しい」も、必ずしも今目にしている画像や耳にしている音声が即物的に肉体に苦痛を与えるというのではありません。

画音そのものではなく、むしろ見せたり聞かせたりしている人間の技量が低いとか、品性が卑しいとか、配慮に欠けるなどと言いたいのです。そのニュアンスが「苦しい」という表現に表れています。

「寝苦しい」も構造としては同じで、寝るのは本来苦しいものではないのですが、外的な、あるいは精神的な理由によって「苦しくて寝ていられない」状態を表しています。

似たようなものに、古い表現ですが「居苦しい」というのがあります。「居るのが苦しい」「苦しくて居られない」と言うとかなり大げさになりすぎます。むしろ「居心地が悪い」という感じです。

さて、この辺からどんどん面白くなるのですが、では「心苦しい」は如何でしょう? 言うまでもないですが、これは狭心症を形容したものではありません。

単純に「心が苦しい」と言い換えることも可能ではありますが、表す幅はもう少し広く、相手を思いやったり心配したりするさまを、謙遜して一歩引いた立ち位置から述べているところがミソです。

決して「心が苦しい」というような単純かつ一般的なものではなく、もっと限られたケースに用いるべき表現なのです。それは「心憎い」を「心が憎い」と訳してしまってはいけないのと同じような、まさに心憎い表現だとは思いませんか?

さて、どんどん面白い例に進みましょう。「足り苦しい」はどうでしょう。これには今までの公式が当て嵌まりません。

「足りるのが苦しい」わけでも「苦しくて足りていられない」わけでもなく、「足り辛い」というわけです(そう言えば、「苦しい」=「辛い」ですねw)。そう、足りないと言い切っているのではなく、微妙に足りない、微妙に足りないから困っているという、ものすごく微妙なラインを指し示す表現です。

さらなる変化球を──「愛くるしい」は? これは愛が苦しいのでも苦しくて愛せないのでも、微妙に愛がどうかしたわけでもなく、要するに可愛らしいのです。

この「愛くるしい」だけは「愛苦しい」という表記を見ませんので、語源が「苦しい」以外の何かなのかもしれません。でも、こういう外れた例を見つけると楽しいですよね(そんなことないですか)?

大体そんなもんですかね。いや、他にも「暑苦しい」「堅苦しい」「重苦しい」「狭苦しい」などの表現もありますが、これらはどちらかと言うと苦しさの種類や原因を示す単純な表現で、それほど面白くはありません。

でも、これだけ様々な「苦しい」に出会うと、ちょっと感心しませんか? どの表現も見事に、苦もなく状況を表しているではありませんか?

さて、長々とむさ苦しい文章で大変失礼いたしました。えっと、「むさ」って一体何でしょうね(笑)

いいなと思ったら応援しよう!

山本英治 AKA ほなね爺
この記事を読んでチップをあげても良いなと思ってくださった奇特な皆さん。ありがとうございます。銭が取れるような文章でもないのでお気持ちだけで結構です。♡ やシェアをしていただけるだけで充分です。なお、非会員の方でも ♡ は押せますので、よろしくお願いします(笑)