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言葉のデフレーション、表現のインフレーション

言葉のデフレ

facebook や twitter に、何かを観て「号泣した」なんて書いている人がいます。映画の宣伝文句に使われているのも見たことがあります。私はそういう表現を見るたびに「本当に号泣したのか!?」と思ってしまいます。

「号泣」って大声を上げておいおいと泣くことですよ。しくしくじゃなくておいおいですよ。本当に大声上げて泣いたんですか?

私は今日までに映画館で 1300本ぐらい映画を観てきましたが、映画館で「落涙」したことは何度もありますが「号泣」したことは一度もありません。

大人になってからで言うと、そもそも号泣したこと自体がほとんどありません。「嗚咽」ぐらいならありますよ(ちなみにオエツはオエッ!と音が似ているのでゲロを吐くことだと思っている人もいますが、これはしゃくりあげて泣くことです)。でも、号泣は本当にないです。

本当にその人は大声を上げて泣いたのでしょうか? 多分違うでしょう。単に「すごく感動した」ということを伝えたかっただけなのでは?

感動を伝えるためであったり、物を売らんがためであったり、目的はいろいろですが、人は常に新奇で、より刺激に満ちた言葉を探しています。

今まで使ってきた言葉はいつの間にか色褪せてきて、今イチ刺激が足りないような気がして、そのため人はもっとすごい言葉を持ってきたり、場合によっては作り出したりします。

そんな風に、より刺激的な表現を求める傾向が「言葉のデフレ」を呼び起こしているのではないかと、私は思うようになりました。

新しい単語・熟語や言い回しが作られて、いつの間にかそれが使い古されて、値打ちが下がり、その結果さらに刺激に満ちた新たな表現を探さなければならなくなる──私はそういうイタチごっこに少し疲れてきました。

戦争と地獄

そんなことを感じ始めたのはまだ随分若かったころですが、他ならぬ自分が安易に使っていた「戦争」という表現がきっかけでした。──「受験戦争」とか「就職戦線」とかそういう表現です。

戦争って本当は人が死ぬものじゃないか、と不意に思ったのです。

いくら受験や就職活動が辛くても人が死ぬものではないだろう。いや、その辛さがもとで自殺するという惨事も起きるのだけれど、少なくとも人がバタバタと死んで行くものではない。──そういう違いに思い至ったのです。

そんなものに戦争とか戦線などという喩え方をするのは、戦争で亡くなった人たちに失礼なのではないか──20代のある日、私はそんな風に感じたのでした。そして、それ以来できるだけそういう表現を避けるようになりました。

「地獄」も同様です。1970年前後に交通事故の増加が社会問題になり「交通地獄」という表現が出てきました。これも私の頭の中で後年までずっと引っかかってきた表現でした。

交通事故の場合は人が死ぬので「交通地獄」でも良いような気もします。しかし、死ぬのが地獄なのではありません。死んだ後も業火に焼かれ、なおも苦しめられるのが地獄なのです。

それを考えると交通の問題を地獄に例えるのは少し違うような気がします。例えば「借金地獄」なら本物の「地獄」に近いような気もしないではないですが…。

篠山紀信激写!

1970年代に『GORO』という雑誌に連載された写真家・篠山紀信のグラビアに「激写」というタイトルが付けられました。これも刺激を求めた表現です。昔からあった「活写」という表現をエスカレートしたものと考えても良いかもしれません。

当時から「激しく写したら手ブレするのではないか!?」などというツッコミもあったのですが、モデルと写真の出来が良すぎたこともあってすっかり定着してしまいました。

そして、その後「激白」などというバリエーション(「告白」の強調語)も出てきました。しかし、これは語の成り立ち、構造としても美しくありません。

「告」も「白」もともに「つげる」「もうしあげる」という意味の漢字であり、同義2字でできあがった熟語なのに、その「告」だけを「激」という役割も性質も違う漢字に入れ替えるのは美的感覚に欠けるような気がしてならないのです。

こういうのを見ると、言葉のデフレだなあと思ってしまうのです。

同じような例で「爆睡」というのがあります。これも私は馴染めません。ぐっすり眠るのは熟睡でしょう? 爆発したら眠ってなんかいられないじゃないか、と思いませんか?

強調するために大昔は「大」が使われ(関西の場合は「ど」という接頭辞もポピュラーですがw)、そのうちに物足りなくなって「超」や「激」が使われるようになり、そして最近では「爆」流行りです。「爆誕」などというのも、本来は「爆発的誕生」の略なのでしょうが、近いものがあります。

挑戦と潜入

それから、もっと目立たないところでは「挑戦」というような表現も気になるところです。

これもそもそもは「いどむ」「いくさ」という非常に厳しい意味合いの漢字で、本来はこれもまた人が戦って死ぬようなシチュエーションで使うべきものだったのではないでしょうか?

それが今や「パスタ作りに挑戦」とか「りんごダイエットに挑戦」などと、初めてやってみるものについてものすごく安易に使われています。私は「やってみる」「試作」等の穏やかな表現で事足りるのではないかといつも思うのです。

人が死ぬのが価値が高いとは言いませんが、しかし、こういう例を見ていると、なんか目立たないモノの価値を引き上げるために、より刺激性の高い表現を引っ張り出してきて、その結果表現の価値を引きずり下ろしているような気がするのです。

それからテレビ番組の副題やコーナー見出しに使われる「どこそこに潜入」という表現。

「潜入」というのは人に知られないようにこっそり忍び込むことです。「めったに見られないものを撮影した」と誇りたい気持ちは分からないでもないですが、ちゃんと取材許可を取って撮影しているのに「潜入」は“看板に偽りあり”でしょう。

さらに、「サディスト」「マゾヒスト」「フェティシスト」などという表現も、あまりに安易に使われているように思います。

他人を責め立てて追い込むのが好きかどうか、他人からきつく言われるのが好きかどうかという程度のことで「どエス」だの「どエム」だの言うのは、語源となっているサド侯爵とマゾッホに対して失礼な気がするんですよね、私は。

表現のインフレ

そんないろんなことを気にし始めてしまうと、どの表現も抑え目に、なんだか大人しくなってしまうのではないか、と言われるかもしれません。はい、私はそれで良いと思っています。

考えてみれば、私たちが声高にアピールしていることは、実はそれほど騒ぎ立てることではないように思えてくるのです。

ところで、ここまで私は「デフレ」という言葉で説明してきましたが、ひょっとすると逆なのかもしれません。

言葉を商品と考えれば、商品の価値が下がって行くわけなのでデフレということになりますが、言葉で表される対象を商品、表す言葉そのものを通貨と考えれば、商品の価値が下がって今まで以上に大層な言葉(高価な通貨)を持ってくる必要が出て来るということになるので、それはインフレになります。

だから、「表現のインフレ」という言い方をしたほうが良いのかもしれませんね。え? 違います? ややこしいなあ。 そもそも通貨経済に例えようとするのが無理がある? でも、言葉って面白いですね。

ま、しかし、いずれにしても、こういう風に言葉の重みが変わるのはどうなんだろう、というのが昨今の私の心情です。

言葉はむしろ常に一定の価値を表す、安定した通貨であるべきだと、私は思うのですが、如何でしょうか?

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山本英治 AKA ほなね爺
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