翻訳って時々間違ってますよね?
翻訳という仕事は基本的に翻訳のプロがやっているわけですから、間違っているはずがないとついつい私たちは思いがちなんですが、実は結構間違っているんだということに最近気がつきました。
フットボールって何?
アメリカ人が football と言ったのを「サッカー」と訳していたけど、ほんとにそれはサッカーだったのか? アメリカン・フットボールのことだったんじゃないの?──みたいなことを先日 note に書きましたが、それなんかもそのひとつの例ではないかと思います。
warmer とか colder って?
もっと古い例では、もう 20年以上前に、当時やっていた自分のホームページに書いたのですが、『女と女と井戸の中』(The Well)という1997年制作のオーストラリア映画を見ていた時に発見したことがあります。
女主人が若いメイドに誕生日プレゼントを買ってきて、部屋の中に隠して、目隠しをしたメイドに探させるシーンでした。
メイドが手探りであっちに行ったりこっちに行ったりするたびに、女主人が It's getting warmer. とか Colder. とか言うのを、字幕は「暑い」とか「寒い」とか訳していました。
これはひどい訳です。warm/cold というのは、ここでは「クイズなどの答えが正解に近い/遠い」という意味です(つまり、It's getting warmer. は「(正解に)近づいてきた」の意)。しかも warm を確か「暑い」と訳していました(「暖かい」じゃないの?)
訳者は warm や cold にそんな意味があるとは知らなかったのでしょう。当時はまだその意味を載せている辞書も少なかったですから。
知っている/知らないはまあ良いのです。誰でも最初は知らないんだから。
でもね、訳している本人も「暑い」とか「寒い」では何のことだか分からなかったはずです。なおさら、この訳文を見せられた観客は何のことだかさっぱり解りません。
意味の解らない文章をそのまま放置するようでは翻訳家失格なのではないでしょうか。
それで私は配給会社にメールを書きました。揚げ足を取って糾弾するような調子にならないように、慎重に言葉を選んで書いたつもりだったのですが、返事はありませんでした。
後にその映画が WOWOW で放送された際に確かめたら、やはり字幕はあの時のままでした。
翻訳家自身でなくても良いから、誰かが「これでは意味が分からない」と言うべきなんですよね。たまにこんなものが放置されていたりするということです。
バケツ・リストって何よ、それ?
それから今年目にした例を2つ。
ひとつめは何の作品だったかは忘れてしまいました。確か Netflix じゃなかったかなと思うのですが、ひょっとしたら YouTube で観た何かの動画だったかもしれません。
「私のバケツ・リストに入っていたから(やりました)」という字幕が出ていたのです(私の記憶で書いているので正確に再現していないかもしれませんが)。この日本語も何のことだか分かりません。でも、もしも on one's bucket list という英熟語を知っていたら何のこたぁありません。
the bucket list は「死ぬまでにやってみたいことリスト」です。なんでバケツが「死ぬまでにやってみたい」という意味になるのかと言えば、死ぬことを kick the bucket と言うところから派生しています。
では、何故死ぬことを kick the bucket と言うかと言えば、人は自殺をするときにバケツなどの台の上に乗って首に縄をかけ、バケツを蹴っ飛ばして首を吊るというところからなのだそうです。ちなみに kick the bucket という表現は、(語源は別として、今では)自殺に限らず死ぬこと全般に使われるようですが。
これも同じですね。上の warmer/colder のケースと同じで、訳者は知らなかったのでしょう。知らない表現があるのは仕方がありません。でも意味の分からない文章をそのままにしてはいけないと思うのです。それを調べて解る文章にするのがプロの仕事だと私は思うのです。
ちなみにジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが主演した『最高の人生の見つけ方』という映画(日本でも同じタイトルで、吉永小百合と天海祐希の主演でリメイクされました)の原題が The Bucket List でした。
私は観ていないのですが、ひょっとしたらこの映画の中でも「バケツ・リスト」という字幕を出していたのでしょうか? もしそうだったとしたら、やはり私にはあまり良い訳だと思えません。
フラットホワイトを飲んだことがありますか?
そしてもうひとつは、これは間違いなく Netflix で、『ザ・ストレンジャー』というドラマです。こちらは誤訳というわけではないのですが…。
コーヒーショップでコーヒーを注文するシーンが2つありました。その両方のシーンで登場人物が flat white と言っています。字幕は「フラットホワイトを」でした。
私はそれが何なのかとても気になりました。ホワイトって言うぐらいだからクリーム入りのコーヒーなのかなとは思いましたが、確信がありません。それで英辞郎で調べたら「ミルクの入ったコーヒー」と書いてありました。何故「ミルク入りコーヒー」ではなく「フラットホワイト」という字幕にしたのでしょう?
コーヒーショップの場面だから注文したのはコーヒーだと想像がつくので、字幕は「ミルク入りで」ぐらいで良いのではないかと思いましたが、そうは訳せない事情があったのでしょうか?
それでもう少し(今度はウィキなどで)調べてみると、このフラットホワイトというのは近年日本でも少しずつ広まってきているコーヒーの種類なのだそうです。すでに日本でもメニューにこれを入れているコーヒー店があるみたいですね。でも、スタバにもタリーズにもそういう名前のコーヒーはないし、私は全く知りませんでした。
ひょっとしたらこの訳者はフラットホワイトのある店の常連で、いつも自分がフラットホワイトを頼むのでそんなものは誰でも知っていると思ったのかもしれません。
でも私は「フラットホワイト」という字幕を見て、「一体何を注文しているんだろう?」とすごく気になりました。
厳密に言うと、フラットホワイトはエスプレッソ、スチームミルク、フォームミルクが3層構造になっていて、かつエスプレッソの比率が高いコーヒーで、カフェラテともカプチーノとも違うのだそうです。そんな新しい飲み物であるというところにこだわって、訳者はそのまま「フラットホワイト」としたのでしょうか?
でも、多分それは(現時点では)日本人の大半が知っているような飲み物では(まだ)ないと思います。フラットホワイトのままでは多くの日本人視聴者に理解されないと訳者は思わなかったのでしょうか?
これも同じです。お願いですから、大半の日本人が理解できる文章にならないうちに翻訳作業を打ち切らないでください──と私は思うのです。
訳すってどういう作業なのか?
かつて『リバー・ランズ・スルー・イット』とか『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』みたいな、原題を翻訳せずにただカタカナ化しただけの邦題の映画が横行したことがあります。
私は flat white を「フラットホワイト」という字幕にするのは、それと同じような職務放棄、と言うと表現がキツイですが、なんか最後まで訳しきっていない感じが残るんですよね。そんなことありませんか?
その邦題をつけた人にはそれなりの理屈があったのかもしれませんが、なんであれ、そんなカタカナでは意味がちゃんと伝わらない可能性が高いんじゃないかと思うのです。
確かに「ミルク入り」では flat white を正確に表していませんが、このシーンで登場人物がどのコーヒーを頼んだかは本筋に全く関係がありません。ならばここは大雑把に、例えば「ミルク入りで」か「クリーム入りで」ぐらいで良かったのではないかというのが私の考えです。
本筋に影響がないのであれば、いっそのこと「カフェラテ」でも良かったのではないかという気さえします。
さすがにそれでは微妙に異なる2種類のコーヒーを一緒くたにしてしまっているので、翻訳者としては良心が咎めるのかもしれません。
ならば、「“フラットホワイト”を」みたいに括弧付きにしたらどうでしょう? その表記だったら「コーヒーの種類なのかな?」と想像しやすくなりますし、私みたいに引っ掛からずに済みます。
とにかく私は、その字幕が2箇所もあったものだから、フラットホワイトが一体何なのか気になって気になって仕方がありませんでした。
これに「フラットホワイト」という字幕を付けて良いのは、フラットホワイトが日本でもっともっと普及してきたときか、あるいはその商品名が事件解決の鍵になっているような場合だけではないかと思うのです。
いずれにしても、「フラットホワイト」という字幕は「まあ、そのままで良いか」と途中で思考停止してしまった訳語のような気がしてならないのです。もちろんそこまで思わない人もたくさんいるとは思いますが…。
自分が英語を再勉強し始めたこともあって、最近いろいろなことに気づくようになりました。私たちはときどきこんな風によく分からない翻訳を見せられていたんですね。
たまたま自分が知っている知識を振りかざして鬼の首でも取ったように書くつもりはありません。そもそもプロの翻訳家に知っている英語表現の多寡を問うたりはしません。だって翻訳家と勝負したら間違いなく私は全敗するでしょうから(笑)
ただ、解る文章、伝わる表現になるまでしっかり粘ってほしいなと、それだけを思う今日このごろです。
今の世の中、大体のことは調べればどこかに載っているんですから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【2023/2/5 追記】
“フラット・ホワイト” を見つけました。なんと、通いなれた TOHOシネマズの映画館の売店にありました。いつからあったのでしょう?
飲んでみました。美味しかったです。
2、3年もしたら、 flat white がフラット・ホワイトと訳されていても全く違和感がなくなるのかもしれません。