「お疲れさまです」と言えない世代
僕らの世代だと「お疲れさまでした」は言えても「お疲れさまです」とは却々言えない人が少なくないのではないでしょうか。他ならぬ僕がそうです。
と言うのも、「お疲れさまでした」は会社に勤め始めた若い頃から使ってきた表現ですが、当時は「お疲れさまです」という現在形の用法はなかったからです。
「お疲れさまでした」は何か骨の折れる仕事をやり遂げた時、あるいはそんなに大げさではなく、単に一日の勤務が終わった時などに投げかけるいたわりの言葉でした。
ところが、今頻用されている「お疲れさまです」は、僕らがいろんな表現で表してきたことを全部ひっくるめて言い表しているように思えます。例えば僕らが言ってきた
みたいな言葉全部が「お疲れさまです」になっているように聞こえるのですが、そんなことはないでしょうか?
近年若い人たちは「とりあえずこれさえやっておけば大丈夫」という“万能の解”を求めるので、言葉全体にこういう傾向が出てくるのだと思います。例えば「大丈夫です」なんてのも結構多義的に使われていますよね。
一方僕らの世代は、そもそも人生に万能の解などはなく、その場その場にどう対応するかが勝負だ、みたいな人生観で生きてきたということもあって、むしろ使い分けを重視してきました。だから「お疲れさまです」も「大丈夫です」もしっくり来ないのではないかなと思います。
僕が若かった頃、当時の偉い人に下手に「お疲れさまでした」などと言うと「別に疲れてない!」などと返されたりもしたものです。
今思えば、それは疲れていないのに疲れたと言われたから怒っているのではなく、「お前のその言葉の使い方は間違っている。今は『お疲れさまでした』と言うべき場面ではない」という意味で言っていたのかもしれません。
そして、ちゃんと言葉を使い分けられる人間だけが一人前の社会人と認められたのも確かです。
考えてみれば面倒くさい世の中でした。そんなものは全廃してオールマイティの「お疲れさまです」で良いじゃないか、という発想も分からないではないです。
ちなみに「お疲れさま」は目上の人に、「ご苦労さま」は目下の人に使う言葉だとよく言われますが、ある国語学者によるとそんなことが言われ始めたのはほんの数十年前からで、かつてはそんな区別はなかったらしいです(これは最近知った事実です)。
そんな風に逆に面倒くさい使い分けが生まれてくる場合もあるんですよね。言葉は必ずしも簡略化に向かっているわけではないということです。
言葉は変わって行きます。そこが面白いと思います。
自分自身は「お疲れさまです」とは言えないし、若い人たちの「お疲れさまです」を聞くと幾分心地悪いのも確かですが、一方で面白いなあと思いながら言葉の変化を見守っています。
気がついたら3年近く前にも同じようなテーマで書いていましたが、今読み返すと全然変わっていない部分と少し変わってきた部分があって、自分でも面白いなあと思います: