我が身をつねったその先に
私は「我が身をつねって他人(ひと)の痛さを知れ」というフレーズが嫌いです。前にも「なせばなる…」という言葉が嫌いだと書いていたりするので、まあ、あれが嫌い、これが嫌いとうるさいオヤジと思わても仕方ありません(笑)
でも、これ、結構人生哲学に関わる問題なんですよね。
「我が身をつねって他人の痛さを知れ」というのは本来「他人の痛みを慮る人間になれ」という意味なんでしょう。それは分かるし、素晴らしいことだと思います。でも、この表現は良くないと思うのです。
だって、我が身をつねって分かるのはあくまで我が身の痛さであって、他人の痛さが知れるわけありませんから。意地悪や揚げ足取りで言っているのではありません。私が言いたいのは他人の痛さが我が身の痛さと同じであると勘違いすることの危険性です。
我が身の痛さが他人の痛さと同等・同質であると思い込むことによって、私たちは知らず知らずに他人を傷つけてしまうことがあるのではないでしょうか。
若い頃、仕事で弱音を吐くと上司によく言われました──「そんなもん屁でもない。俺なんかもっとひどい目に遭ってる」「俺たちの世代はもっと大きな修羅場を潜ってきた」「そんなことで四の五の言われた日にゃ、俺の若い頃のことなんかどうしてくれる?」…。
それに対する私の答えはこうです──「あんたの若い頃のことなんか知らん」(口に出して言いはしませんでしたが)
自分を基準に世界を一般化するのは危ないことです。あなたが苦労したから私にも同等の苦労をというのは、一見正しそうに見えて実は極めて非論理的な見解です。
今、自分が上司の立場になって、一番危ないなと思うのはそこです。私たちは、時代も環境も違う若い人たちに自分の苦労を押し付けていないでしょうか? 自分の成功体験のせいで、若い芽を摘んだりしてはいないでしょうか?
「我が身をつねって…」という金言は、我が身の痛さにさえ思いを馳せないくらい物事を考えない人間に対しては有効なアドバイスかもしれません。でも、真に求められるのは次の段階、つまり「我が身の痛さから他人の痛さを総合的に類推する」ことなのです。
私は自分で自分をつねってみて、別に痛くはなかった。ただ、彼の場合は少し痛いかもしれない。何故なら彼の場合は私の場合とこれこれの点が違うから。
あるいは逆に、
私は自分がそうされるのが嫌だからそういう行為を悉く避けてきた。でも、よく観察しているとそうでない人もいる。それどころか、逆にそういう行為を求めている人さえいるように見える。そういう人に対しては、私はそれをやってあげるべきなのか、あるいはあくまでやめておくべきなのか?
このくらいの高い次元を、私たちは目指すべきではないでしょうか?
もちろん、「真の値」は常に極端と極端の中間にあります。我が身の痛さと他人の痛さが完全にイコールであることはないでしょうし、逆に痛さが全く共有できないケースも稀なはずです。
要はどちらの極端からアプローチするかということなんです。
──自分は相手のことを解っている(あるいは解ることができるだろう)という前提に立つのか、自分は相手のことなんかちっとも解っていないという自覚からスタートするのか。人はみな同じだという地点からスタートするのか、人はみな違うのだというところから歩み始めるのか。
どちらが悪いとは言いません。でも、少なくとも私は「あ、俺平気だから、あいつつねってみよ」みたいな脳天気な一端からアプローチするのは避けたいのです。
人は皆違うのです。──もちろん、そういう一端からスタートすると思案ばかりが先に立って行動が遅れることがあります。構いません。それが言わば私の人生観です。それよりも他人の痛さを知りえない自分の卑小さを意識したいと思います。
私とは正反対の人生観を持つ人もいます。私はそういう人たちを排斥しません。そういう人たちと共に生きる、そういう人たちと相互に作用しあって生きる、そういうことで世の中は豊かになるのです。
ただ、私自身の出発点としては恰も「我が身をつねって他人の痛さを知った」かのような位置には立たない──それだけのことです。
理屈っぽいとか考えすぎとか言われるのは昔からのことなので、まあ仕方がありません。と言うか、大目に見てくれるとありがたいです。それが私の生き方ですので。