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平山瑞穂によると小説は
平山瑞穂さんが note に書いている「エンタメ小説家の失敗学」というシリーズをずっと読んでいる。
昨日(2022年10月7日)最新の『「伏線回収」という問題――エンタメ小説家の失敗学33』を読んだのだが、僕はここには現代の日本における広い意味での表現というものが置かれている危機的な状況が如実に語られていると思う。
この回だけ読んでも仕方がないと思われるかもしれないが、この回だけでも大体意味は掴めると思うので、興味のある人は読んでほしい。
ここでは前々回、前回に引き続いて彼の作品である『桃の向こう』について著者自らが語っている。
僕はこの小説を読んでいないので、詳しいことは分からないのだが、そこでは小説の主な登場人物のひとりである仁科煌子という女性が、途中で消えてから最後に再登場するまでの間にどういう経緯で何をしていたのかが全く語られていないのだそうだ。
それが語られないまま、そして彼女がその後どうなったのかも明かされないまま小説が終わってしまったために、なんか(これは僕の表現だが)尻切れトンボみたいに思う読者もいた、と言うか、文中にもあるように「結局何が言いたいのか分からない」みたいな感想が多く、この本は売れなかったようだ。
「語られないまま(中略)終わってしまった」と僕は書いたが、しかし、もちろんそれは平山氏がうっかり書き落としたわけではなく、もとより意図してそういう構成にしたのである。つまりは、そういう手法、そういう表現が受け入れられなかったということだ。
平山氏はそれを、純文学なら通じる手法をエンタメ文芸でやってしまったのが失敗だった、みたいなまとめ方をしている(彼は元々純文学を指向していた人だ)。しかし、僕が思うに、これは作家が選択を間違ったというような問題ではない。
読者は「純文学の読者」「ミステリの読者」「ラノベの読者」という風にきれいにグループ分けされているわけではない。
もちろん純文学しか読まない人とか、もっぱらミステリばかり読んでいる人なども少なからずいるだろうが、一日三食カレーしか食べないとか中華料理しか食べないという日本人がいないように(インドや中国にはいるのかもしれないが)、現実的には人の好みは重複しているし、本人にとっても必ずしも明確ではないし、かなり流動的でもあるはずだ。
なのにそれを「純文学の読者」「エンタメ文芸の読者」という風にきれいにグループ分けして、あるいはターゲットに分けて考えるのはあまりに類型的だし、適切ではないと思う。
一方で、本を売る側がそんな風に分かれてしまっている、つまり、平山氏にその時ついていた編集者がエンタメ文芸の人だったから、みたいな事情もあったとは思うが…。
ただ、平山氏はそんなことは重々分かった上で、ここではそんな書き方をしているのだと僕は思う。
つまり、『桃の向こう』を読んで何が言いたいか分からないというような読者に対しては、「作家が間違った手法を選んでしまったからだ」という、いろんなものを端折って単純化した説明でないと理解してもらえないと知っているからだと思う。
稲田豊史さんの『映画を早送りで観る人たち』にも書いてあった(そして、僕もそれを note で取り上げた)ように、最後まで読まないとその意味が分からないようなタイトルは今の読者には全く受けないのだそうだ。
最後まで読んで漸く意味が分かるものが疎まれるのだから、最後まで読んでも登場人物の来し方行く末が分からないような小説が受け入れられるはずがない。「何が言いたいのか分からない」と断罪されるのもむべなるかな、である(笑)
そして、そういうような傾向は小説だけではなく、ドラマや映画の世界にも出てきていると僕は感じるのである。
映画の批評(と言うか感想文)においても「伏線が回収されていない」みたいな批判をたくさん目にするようになった。彼らにとっては、どうやら伏線を撒き散らしてそれを順番に完全に回収して行くことがストーリー展開上いちばん大事なこと、いや、それこそがストーリーそのものであるらしい。
僕は、途中まで描いておいて際どいところで放り出すようなエンディングが大好きである(幸いにして映画にはまだそういう作品が少なからずある)。
それどころか、「そろそろもう2時間だし、この監督のことだから、きっと今のこの場面でブチッと打ち切って映画を終わりにするぞ。さあ切るぞ、切るぞ…ほらやっぱりぶった切った! 良いエンディングだ」などと思いながら喜々として観ている。
乱暴な言い方をすると、語り尽くさずに突然バサッと幕を降ろしてしまう終わり方の中にこそ、余韻というものが出てくるのである。終わった後で読者や観客にいろいろと考えさせ、この後どうなったんだろうと悩ませ、あれやこれやに思いを馳せさせる表現は例外なく良い表現だと僕は思っている。
でも、そういうものを受け入れない人たちが増えている気がする。
それはつまり、一日三食カレーしか食べない日本人が出てきたようなものではないかと考えている。
僕が初めて読んだ平山瑞穂作品は『有村ちさとによると世界は』で、この本を読んでいっぺんにファンになってしまった。にもかかわらず、彼の作品を4冊しか読んでいないのは、その後『有村ちさと』的な作風の小説を却々見つけられなかったからである。
今回平山氏の文章を読んで、何としてもこの『桃の向こう』を読みたくなった。僕の予感が正しいなら、これはきっと傑作のはずである。Amazon で新古本をポチッとしてしまった。
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この記事を書いた後、続編みたいな感じでまた書いたのが以下の記事です:
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