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横文字ほったらかし文化 ~誰のために訳すか、誰のために学ぶか~

学術上の専門用語でも、あるいは洋画の邦題や外国曲のタイトルでもそうなんですが、近年英語をカタカナに置き換えただけで訳そうとしない傾向が著しいと思いませんか?

昔はいちいち漢字やカナを使って、それに見合う日本語を作ろうとしたものです。何故なんでしょう?

多分「英語のままでは一般庶民に解るまい」という意識が働いたのだと思います。その英語の概念を日本に輸入しようとした人たちに、「これは俺たちにしか解らない」というエリート意識があったのかもしれません。

彼らは一段高いところから民衆を見下していました。でも、その分と言うか、その裏返しにと言うか、彼らは一般庶民に対して親切だったとも言えるのではないでしょうか。

どうすれば一般の人たちが理解しやすいか、どう訳せば日本人に受け入れられるのか、どう噛み砕けば広く日本社会に行き渡るのか、そんなことを一生懸命考えて考えて、彼らは日本語を当てはめたはずです。

passport よりは「旅券」のほうが解りやすかろう。ならば visa は「査証」でどうか?
basketball より「籠球」のほうがイメージが湧くだろう。vollyball は「排球」でどうだ?
international が「国際」だから interdiciplinary は「学際」でどうだ? 等々。

今はどうでしょう?

aesthetician はエステティシャン
biorhythm はバイオリズム
incentive はインセンティブ
paradigm はパラダイム
volunteer はボランティア

…みんなそのまんまです。

おかげで私たちは日々馴染みのない外国語を丸暗記するしかないのです。

もちろんなんでもかんでも日本語に置き換えりゃ良いってもんではありません。置き換えても解りにくいものは解りにくくて、例えば大昔に訳された「哲学」( philosophy )なんて、今でこそ完全に定着していますが、漢字を見てもさっぱり意味が解りません。

「自由」とか「権利」とか、この時代に訳されたものはどれもこれもちょっと高踏的すぎる嫌いがあります。

ただ、それらは当時の日本には全くなかった概念を日本に導入しようとする苦悩の末に生まれてきたものです。日本人に伝えるためには多少難解であっても、無理やり漢語を作り出すしかなかったのです。ともかくその概念を表す日本語を作り上げて、概念もろとも人口に膾炙しようというのが彼らの狙いであったはずです。

その努力の甲斐あって、それらの言葉は、その概念とともに、現在の日本に見事に定着していることだけは確かです。

それに比べれば、今の訳者・紹介者は一般庶民と同じ地平に立っているとも言えるでしょう。しかし、それは「このくらいの英語は誰でも解るだろう」「知らなきゃ憶えりゃいいじゃないか」という慢心であるとも言えます。

それって、逆に解らない人を見下してしまう恐れさえあるように思うのですが、違うでしょうか?

昔の学者・専門家は確かに民衆を低いもの・蒙いものと見ていたのかもしれません。しかし、彼らは低いもの・蒙いものを切り捨てようという意志はさらさらなく、なんとか民衆を助けてやろう・引き上げてやろうという使命感に燃えていたのではないでしょうか?

そう、自分たちは何故一段高いところにいるのか、何故高いところを目指しているのか、それは民衆を助け民衆を引き上げるためなのであり、ひとことで言えば奉仕の心です。

エリートとは本来一般庶民に対する奉仕の心を持って研鑽を積んでいる人たちの称号だったんじゃないかな、なんてことを最近思います。

奉仕の心を持った者だけが、一段高いところから民衆を見下ろすことが許されたのではないでしょうか? 一段高いところに立つ代わりに彼らは、一段低いところにいる人たちのために咀嚼してやることを忘れなかったんじゃないでしょうか?

今、何かを勉強したり、研究したり、いち早く日本に導入しようとしたりしている人たちは、どうすればそれがみんなに受け入れられやすくなるかという問題をなおざりにしていないでしょうか?

そして、その傾向が現在の「横文字ほったらかし文化」に繋がっているのではないでしょうか?

エリート意識は悪いものとされてきました。確かに一部のエリートだけに学ぶ特権が与えられるのは好ましくありません。今や誰も彼もが学ぶ社会になりました。良い社会です。

ただ、そんな社会になった今でも、やはり正しい意味でのエリート意識は必要とされているのではないでしょうか? エリートとは他人のために不断の努力を続ける人間です。

私たちは「解らない奴がいてもいいや」と切り捨てていないでしょうか? 「日本語に訳しにくいからそのままで良いか」と手抜きをしていないでしょうか?

もちろん、これだけ横文字が氾濫してしまうと、今さら単語レベルでそんなことを言っても意味がありません。事実私のこの文章の中でも、例えば「イメージ」という言葉は横文字ほったらかしです。今から日本にある外来語を全て漢語か大和言葉に置き換えろと言うのではありません。

ただ、外国語を日本語に訳すとき、あるいはもっと広げて、何かを学ぶとき、何か新しい知識を吸収しようとするとき、私たちはまず継続的に高いところを目指すべきであり、次にそれを他の人のために役立てることを考えるべきです。

いきなり民衆のためだなんて言いません。それはかなり高いところに到達しないと無理です。ただ、家族や友人に理解してもらう、吸収してもらう、身につけてもらうことから始めませんか?

言葉はコミュニケーションの道具であり、コミュニケーションとは本来そういうものであると思うのです。

世間に溢れるカタカナを眺めているうちに、飛躍のしすぎかもしれませんが、そんな感慨を覚えました。

(この文章は当初2006年の1月に書いて自分のホームページに上げたものですが、引っ張り出して読んでみると14年後の今日も何ら変わっていない、どころか、それがもっと進んでしまっている気がしたので、少し手を入れてここに公開することにしました)

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山本英治 AKA ほなね爺
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