続・気になる放送のことば
続・のようなもの
ニュースを見ていて久しぶりに「猟銃のようなもので警察官を撃った」という表現に接し、やっぱり違和感を覚えました。
もちろんこれは使用されたのがまだ猟銃だと断定できない時点での報道であり、正確性を期するためにニュースが選んだ言い回しなのですが、前にも書きました通り、「のようなもの」という表現には「似ているけれど本当はそれではない」という含意があります。だから気持ち悪いのです。
例えば、
という表現で言えば、見えているのは黒い虫に似たものであって、実際に虫ではありません。そういうニュアンスを含んだ言葉だから、ことさら「猟銃のようなもの」などと言われると、「猟銃でないとしたら一体何なんだ?」と思ってしまうのだと思います。
「猟銃と思われるもので」ぐらいが良いんじゃないかと思うのですが、どうでしょう?
余談になりますが、そんな微妙なニュアンスを表す「の・ようなもの」をタイトルに映画を撮った森田芳光監督の感性を僕はすごいと思います。
前には書きませんでしたが、ニュースで使われる言葉にはそんな風に引っかかりを覚えるものが他にも結構あります。
下着に興味があった
例えば、盗撮や痴漢行為などで逮捕された犯人が、「女性の下着に興味があったと供述しています」みたいな表現を時々耳にします。これも何だかなあという感じがしませんか?
実際犯人はそんな言い方していないんじゃないかなと思うのです。あまり言いそうな表現ではありません。おそらくこれは露骨な表現を避けるためにニュースが選んだ表現なのではないでしょうか。
「興味がある」という表現は何かを始めるきっかけを表すことが多く、その何かに本格的に取り組む前か、あるいは取り組み始めてあまり間もない頃に使う表現ではないでしょうか? 少なくとも何百枚、何千枚の盗撮写真を撮っちゃった百戦錬磨(?)の人が使うには少し軽すぎるように思うのです。
もちろん、犯人が自分の犯罪行為を軽く見せ、罪悪感を和らげるために実際に使った表現なのかもしれません。ただ、この同じ表現を何度かニュースで聞いているので、やはりこれは局側の意向なのかなという気もするのです。
「女性の下着に興味がある」という表現もやや正確性を欠いた言い方です。もし女性下着に興味があるだけなのであれば、下着売り場で写真を撮りまくったら良いではないかと思うのです。そんなことをしていると店員さんや勇気あるお客さんに咎められるかもしれませんが、少なくとも警察に逮捕されるまでには至らないでしょう。
ところが彼はそれでは満足できないのです。あくまで女性が着用した状態の下着の写真でなければ。だから単に「女性の下着に興味があった」というのは、(誰が言ったにせよ)犯行の動機を語るには不充分な表現だと思うのです。
つまり、あえて犯行の動機を語るとすれば、「彼はそういう人だった」としか言いようがないのであって、それを「女性の下着に興味があった」などと言ってしまうのは、一見小ぎれいに体裁を整えているようであって、実際何も本質を語っていないように僕には思えるのです。
私が◯◯したことに間違いありません
あともうひとつあるのは、「容疑者は『私が盗んだことに間違いありません』と供述しています」というような表現です。これも、注意して聞いていると、ニュースでよく言っています。しかし、これもまた変な表現で、実際こんな言い方するだろうか?と僕は思うのです。
僕なら「私がやりました」とは言っても、「私がやったことに間違いありません」とは決して言わない気がします。あくまで僕の想像ですが、これは取調官が「お前がやったということに間違いないな?」と問い質したことに対して容疑者がそれを是認したということを表したものではないでしょうか?
そこまで考えてふと思ったのですが、これらの違和感のある表現はひょっとしたら放送局がいろいろ考慮したものではなくて、警察発表の文言をそのまま採用したものなのかもしれません。
長年放送局に勤めていたとは言え、僕は報道記者の経験がないので、実際のところはどうなのかは分かりませんが…。
しかし、もし、これが上に書いたように、警察官が「間違いないな?」と言ったのに対して容疑者がそれを認めたということなのだとしたら、それもまた何だかな、という気がするのです。
「もしAだとしたらBだ。そして、もしBだとしたらCで、CであるならばDだ」という風に推定を繋げて結論に導こうとするのを「連鎖推論」と言って、「Bだ」とか「Cだ」とかいうのはあくまで仮定に基づいた推測であるのに、理屈を次に進めるときにはあたかもそれが既定の事実であるかのように扱っており、そういうことを重ねて結論に至るのは実はとても危ないことです。
そういうことを分かった上で、僕の推論を書いておくと、もしも取調官が「お前がやったのだな?」ではなく「お前がやったのに間違いないな?」という言い方しているとしたら、それはなんか、事実を明らかにしようとしているのではなく、自分の取り調べに間違いがないことを証明するのに汲々としているように見えるのです。
取調官が「お前がやったということに間違いないな?」と訊いたのに対して、「はい、私がやりました」などと答えると、ひょっとしたら「お前がやったことにに間違いないかどうかと訊いているんだ!」などと怒鳴られて、「間違いありません」という表現を引き出して、捜査官の無謬性を裏付けるまで終わらないのではないかという気さえします。
いやいや、ちょっとそれはあまりにも悪意に満ちた想像ではないか、と言われると、はい、その通りです(笑) でも、2007年に周防正行監督の『それでもボクはやってない』という映画を見て以来、僕は警察の取り調べの公正さについては全く信頼感が得られないのです。
僕は当時、この映画について、自分のブログにこう書き残しています:
そうだ、今回ここにも書き残しておこうと思います。
もし僕が何か罪を犯して逮捕され、取調官に「間違いない」という表現を強要されても、(もしまだその気力が残っていればの話ですが)、僕はこう答えよう:
てな具合に、テレビのニュースでいろいろな表現を耳にすると、僕は結構違和感を覚えることが多いのです。
でも、一番不思議なのは、僕みたいにそういう表現にいちいち違和感を覚える人がどうやら少数派であるということです(笑)