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ことばと生き方──ことばに対するこだわり

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若い頃から「ことば」というものに興味があり、2001年から2018年まで“ことばのWeb”を主宰していた流れで書いた文章を集めています。
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#生きる

雨ときどき止む

最近、天気予報で「雨ときどき止む」っていうのがあるじゃないですか。いや、ひょっとしたらすでに最近とは言えないくらい前からある言い回しなのかもしれませんが、少なくとも私の子供の頃にはなかった予報です。 最初に聞いたときはなんじゃそりゃ!?と思いました。そうは思いませんか? だって、そりゃぁ、雨はときどき止むでしょうよ。もちろん朝から晩まで降り続ける日もありますが、それは梅雨とか台風とかのときで、それ以外の雨は大概ときどき止むのですよ。 と、まあ、最初はものすごく違和感を覚

お正月

お正月はなんでめでたいのか? ──小学校の頃からそんなことを考えていました。と言うか、その頃から他人と違うためにはどうすれば良いのか、を考えるようになりました。その頃から私は「人は皆同じである」ではなく「人は一人ひとり皆違う」ということを、物事を考えるスタート地点に据えたのでした。 そんな中で、お正月はなんでめでたいのか、というのは少年時代に随分悩んだ問題でした。そう、今思えば私はいつも苦悩に満ちた少年でした。 暦というのは人間が勝手に作ったものです。単位がなく永遠に数

上から目線

今の若い人たちは「上から目線」というのを徹底的に忌み嫌うみたいですね。 彼らが使う「上から目線」という表現は今や相手の全人格を否定できるほどのモンスター・ワードになったような気がします。でも、私は彼らがそんな風に言うのを聞くと、時々「そこかよ!?」と思ってしまうんですよ。 何しろ我々の若い頃は「全出勤日=パワハラを受ける日」だったので、「上から目線」慣れしちゃっているのかもしれません(笑) 我々の世代からしたら、全社会的に言葉遣いは乱暴だったし、誰彼なく上から目線でもの

後悔する生き方

近年、何事かを成し遂げた若いアスリートなどが、少し過去の自分を振り返って、「でも、後悔したくなかったから、一生懸命やりました」みたいなことを言っているのを耳にすることが少なくありません。 この後悔したくないという気持ちが、どうも私にはしっくり来ないのです。そう、私はそれを聞くと反射的に、 と叫びたくなることさえあります。 って、そんな風に思いませんか? 最近の若い子たちは何かと言うとすぐに「後悔したくない」と言いますが、私は常々「間違っていたなら後悔すればいいじゃない

ま、そんなこともあるかな。そう、そんなこともあるわな。

ま、そんなこともあるかな、そう、そんなこともあるわな、と思うようにしている。 例えば来るはずの連絡が来ないとか、待ちぼうけを食らったとかで、辛抱強い僕でもさすがにイライラし始めたところで、そんな自分に言ってみる。ま、そんなこともあるかな、と。 ちょっと待ってよ、なんで俺がそんな目に遭わなけりゃいけないのよ? 何も悪いことしてないのに。 と憤っている自分に言ってみる。 嫌われたのかもね、と なんで突然嫌われるんだよ!? と怒っている自分に言ってみる。 じゃあ、君は

我が身をつねったその先に

私は「我が身をつねって他人(ひと)の痛さを知れ」というフレーズが嫌いです。前にも「なせばなる…」という言葉が嫌いだと書いていたりするので、まあ、あれが嫌い、これが嫌いとうるさいオヤジと思わても仕方ありません(笑) でも、これ、結構人生哲学に関わる問題なんですよね。 「我が身をつねって他人の痛さを知れ」というのは本来「他人の痛みを慮る人間になれ」という意味なんでしょう。それは分かるし、素晴らしいことだと思います。でも、この表現は良くないと思うのです。 だって、我が身をつね

普通、正常、健康…存外危険な思想

(この文章は2001年の6月に書き上げて、当時自分のホームページに掲載していた文章に少し加筆し、修正したものです。大昔に書いた文章であるにもかかわらず、事態は少しも変わっていないし、むしろ悪くなっているような気さえする今日このごろです) 普通「普通」という言葉が危険だなと思うのです。それは実のところほとんど「多数派に属する」という言葉と同じ意味で使われている、と私は思うのです。 それだけではありません、それは暗に「多数派に属するべきだ」と言っている、「多数派に属することが