2年間の模擬国連活動を終えて

 駄文を書き連ねたくなったので、駄文を書き連ねます。

 大学2年生も終わりが見えてきました。無論、終えるためには試験をちゃんとこなさなくてはならなくて、それから逃げながら書き始めた次第です。えへへ。試験はとりあえず考えないことにして、先月をもって会長職を引退し、自分自身の模擬国連活動にも一定の区切りをつけることとなったので、(模擬国連に関わらず大学生活一般にも目を向けながら)ここに色々な思いを忘れないうちに書いてみてもいいのかな、と思った次第です。ちなみにオチも何もないガチの駄文です。

 大学って、本当に無数の選択肢に溢れているじゃないですか。僕なんかは閉鎖的な寮生活を長いこと送ってきたので尚更感じるわけですが、本当に選択肢があり過ぎるんです。ゼミに入るもよし。サークルを掛け持ちするのもよし。バイトをたくさんするのもよし。興味関心に身を委ねて沢山授業をとるのもよし。僕は6年ぶりに移動の自由()を手にしただけで開放感に溢れていたのに、こうも目の前の世界が広がっていると却って何をすればいいのか分からなくなってしまいますよね。この「何をすればいいのか分からない」も僕個人は大学受験的な発想だと思っていて、どこかに正解があるんじゃないかとかどうしても自分の中で探そうとしてしまう嫌いがあると思うんです。日本の大学受験って、東京大学に入学することが(価値判断を挟まずに)一般論的な、あるいは世間における1つの「正解」じゃないですか(燃えそうですけど、偏差値じゃなくて自分に合った大学を!の類の胡散臭い人たちが苦手なのであえて直球で書いておきます)。でも大学に入学した後に、あまり明確な「正解」はない場合がほとんどで、特に大学4年間の生活に王道は存在しないことの方が多いんですよね。これが就職活動になると、外コンとかメガバンとか総合商社とか国家公務員とか色々出てくる気がするんですけど、不思議と大学4年間の生活に、あまりステレオタイプ的な過ごし方って存在しないような気がしているんです。そんなわけで、大学に入ってからの過ごし方ってどうすればいいのか、シンプルに分からなかった記憶があります。模擬国連に取り組もうと1番最初に思ったのも、これをやりたいんだ!と決意したというわけではなくて、お世話になっている先輩方がいたり、コミュニティとしての雰囲気を好きになったからでした。結局、「〇〇だから自分は模擬国連を選んだんだ!」と言えるほどの軸みたいなものを持てていなかったのではないかなと感じています。軸がないんですよね。自分軸と他人軸という言葉を、胡散臭い意識高い系Twitter自称インフルエンサーが使いそうだという自らの偏見を自ら受け入れつつ(?)もこのnoteを貫く1つのキーワードにしてみたいと思います。

 この「軸」がないことは、今日に至るまで、自分自身に迷いを生じさせたり、自信を持たせることができない最大の要因なのではないかと推察しています。僕の目には眩しいほどに輝いている同期や先輩の姿がありました。中高でディベートをやってきて、模擬国連に「競技」として全身全霊をかけている同期に圧倒されたのを今でもよく覚えています。齧る程度に高校で模擬国連を嗜んだ身ですが、いかに自分がいい加減に取り組んでいたか痛感させられます。今だから正直に告白するんですが、議事録を読んだことはほとんどなかったし、浅い表層的な情報に辿り着いてはそれを揺るぎない確固たるものと勝手に判断していい加減な国益設定を行い、議場では我先にと大きな声でグループを形成することに明け暮れていたのではないかと思います。決して高校模擬を乏しめるわけではないんですが、そんな自分でも全国大会で表彰されてしまうような高校模擬に、いやそれは正確じゃないですね、高校模擬に取り組む過去の自分の姿勢を恥ずかしく思ったことを今でも覚えています。人間誰しもそうなのかもしれないんですが、大抵半年前あたりの自分はめちゃくちゃ恥ずかしい。さて、「競技」性にそこまでのめりこむことができなかった(これは勝てないことの言い訳をも一定程度含んでいます)自分は、じゃあなぜ自分が模擬国連を続けているんだろうという問いに対峙することとなりました。その場しのぎの回答として「学術」性(他意はないです)に魅力を感じているんじゃないかなと考えました。それも途中で撤回することになりました。自分なんかよりも遥かにその学術性に惚れ込み、恐ろしいくらいにリサーチに取り組む同期や先輩を前にして、とても偉そうにそんなこと言えなくなってしまったのです。それでも僕は模擬国連が、そしてこまけんが好きでした。正直恐ろしくしんどかったしメンタルもボロボロになった駒場祭の店長を務めたことに始まり、会議外でもこまけんに何かコミットできないか一生懸命考えたし、こうして過ごした2年間を後悔したことは一度もありません。でも、自分自身に中途半端さが生じていることを否定することができませんでした。

 ところで、自分軸が模擬国連に取り組む上での、他者から独立した目標や動機、楽しさに該当するものなのだとすれば、僕は他者に従属する他人軸というものも同様に存在するべきだと思っています。これは、他者からの評価とか、同期や先輩後輩との競争とか、そういう類のものをイメージしています。僕は自分軸同様、他人軸もすごく大切な要素だと感じていて、なぜならば他人軸を自身が受容することは、1つには共通の目標に向かって会議に自身が取り組むことや、他者との切磋琢磨、向上心に通ずるものがあると感じているからです。むしろ他人軸の存在を全否定して、「自分らしく模擬国連ができれば何でもいい!」となってしまうのは、向上心の否定というか、より良い会議に改善を目指していこうみたいな雰囲気を壊しかねないものだし、自分が楽しければ何でもいいだとか、現状の立ち位置を別として強くなろうとする姿勢は一定程度共有されて初めて諸アクターとして会議の成功を担えると思っているからです。言うならば「強くなくてもいい」けれども「強くなろうとする姿勢を大なり小なり放棄してはいけない」だと感じています。なんかとっても偉そうになっちゃいました。許して下さい。

 それでも2年間を通じて痛感したのは、自分軸を担保することの必要性でした。会議に出て、自分より遥かに強い先輩や同期、後輩に学ぶ中で、他人軸は自ずと形成されていきました。疑うことなく、会議でも運営面でも、僕の中にはロールモデルたる先輩や同期の存在があったし、圧倒されたり失敗する中で、改善を見据える上でも他者への比較が僕にとっては大事なプロセスだったと思っています。でも、正直辛いことの方が多かったです。自分自身や他者の視点から、同期が評価されたり、成長を遂げていく中で、それだけのものを自分自身に見出すことができなかったんです。これは、中途半端に取り組んできたことの1つの帰着でもあると思っています。無駄に高いプライドは、そこで模擬国連に取り組む姿勢を放棄することを許さないでくれましたが、一方でどのようにすれば強くなれるかを必死に考えながらも、結果の伴わない自分に苛立っていた嫌いは否めないと思います。

 新歓活動を通じて、自分軸を確立できなかったことのツケが思わぬ形で回ってきました。新入生に模擬国連の魅力を伝えようとする番がいざ回ってきたときに、1年間明確な答えを出すことから逃げてきた自分に改めて対峙しなくてはならなくなったのです。僕個人は、模擬国連にその人にとっての唯一無二性がなくてはならないと思ったことはないのですが、それでもどうして模擬国連なのか、という問いへの自分なりの答えは必要だったんだろうなと思いました。ディベートや国際法研究会にできない模擬国連の魅力って、いわゆる「知の総力戦」以外にどんな形容の仕方があるのか、これまだ僕自身の答えが出せないまま旧メンを終えてしまいました…。

 実は去年の秋くらいに、何もかも嫌になって少し模擬国連から距離を置きたいと考えていた時期がありました。その時、どうして自分が模擬国連を続けているのか、他者から評価されたいからなのか、勝てないからなのか、ちょっと落ち着いて考えてみることにしました。そもそも自分が会長を務めたいと思ったのはなぜなのか。1年前の自分の立候補用紙を掘り出してきたのですが、僕は12期以前の先輩方が作り上げてきた「こまけん」が大好きで、(時には全力で遊びつつも)会議に全力で取り組める環境としての駒場研究会を次代に継承していく担い手の1人になりたかったんだと思います。色々と振り返っていくうちにちょっと忘れていたことを思い出した気がしました。「こまけんを受け継いでいくこと」は、運営面では会長として環境整備に全力を尽くすことを意味するし、他方1人の旧メンとして駒場が駒場であり続けられるように、12期の先輩方のように強いデリでありたいという願いを導くと思います。「自分の大好きな環境が以後もそうであり続けられるように尽くしたい」ことに自分軸を見出せたような気がします。自分が強くなりたいのは、あるいはならなくてはならないのは、勿論尊敬する先輩や同期に評価されたいからというのも一面ではありつつ、好きな環境を継承する1人の担い手でありたいという強い思いもそこに見出せるのではないかなと。

 運営代を終えた今思うのは、僕らが憧れた12期の先輩方に追いつくことはできず、未だ高い壁を痛感せざるを得ないということと、僕の大好きな環境としての「駒場」を後輩にどこまで魅せることができたのかは分からないけれども、その答えは今後14期が築き上げるこまけんが教えてくれるだろうということです。目標としての自分軸は未だ遥か先のところにあるけれども、自分自身への挑戦だとみなして前向きに取り組んでいきたいと思うばかりです。

 だんだん何が書きたいか分からなくなってきてしまったんですが、要約すると「自分軸」と「他人軸」は双方大事で、しっかりと持っていたいよねという話です。両者を明確に区別する必要はなくて、僕自身の結論としての自分軸も両者の側面を含むような気がしていますが、肝要なのは1つの軸に依存しすぎて、それゆえに何かのきっかけで自身を潰してしまわないようにすることだと信じています。悩んでしまっている他者に寄り添い、彼ら彼女らの、無くした大切なものを再発見しようとする営みの支えでありたいという抱負とともに、まとまりを見失っているこの文章の終わりとしたいなと思います。

ちょこっと追記しますが、この文章を書いてから2ヶ月が経ち、様々な心境の変化があったのですが、少し模擬国連から距離をおいて、就職活動のことを少し考え始めようかと思っています。色々と得た教訓を糧にしつつ、少しずつ前をむいて歩いて行けたらいいな。

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