将来の夢や希望はないけれど何者かになりたい
私は肩書きがない。みんなはどう?
どっかに所属している?それが社会的に許されている?
そんなことを考えることがある。まあ、みんな考えてることだど思うけど。意外と考えるのは楽しい。結論が出ずとも、自分の状況と照らし合わせて将来を妄想している。
職業、会社名、職種、役職、学部、学科など何かしらの分類で呼ばれることはあるがそれは、自分をあらわすには不十分だ。
我思う故に我あり
こんな言葉があるが、これは意識があるから出来ることであって意識がないとできない。
この言葉通りだと、寝てるときは自分じゃなくなるということになる。でも、夢を見ているときはどうなんだろう。自分の意思で夢を見ているのかなぁ?特に、自分の意思で動かしている夢ならひょっとすると意識あるかも。
そんなことばっか考えるてる。
というのは嘘でこれは解剖学者 養老たけしさんの言葉だ。
これも養老さんの言葉だが、最近の人たちの将来の夢は職業が多い。職業というのは、自分が生まれる前からあるもので自分は遅れて参加するもので、参加したら周り見ながらやっていくもの。
好きなことを仕事にするには、どうでもよい仕事もしなきゃならない。例えば、医者になるには苛烈な受験戦争を経て医科大を卒業して研修医になって初めて出来る。
その中で当然自分がやりたくないことが出てくる。そうなってくると、好きな仕事も嫌いな仕事も変わらないんじゃないか?
そうおっしゃっている。
仕事を変えるより自分の価値観変えた方が安上がりだと思う。そうなってくると、意識はなく自分はここにいて何者という概念はないとした方が楽だと思った。