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観劇記録「彼の地」

北九州芸術劇場プロデュース「彼の地」を観た。

これは2年前に上演されたものの再演で、東京から来た演出家が小倉で生活して地元の俳優とともに作品を作り、北九州と東京で上演するというもの。

そういうコンセプトがあるだけあって、作品のいたるところに「北九州の豆知識」が散りばめられ、時に俳優自身が「豆知識でした」と付け加える茶目っ気も。


小倉に様々な事情で住む住民たちの群像劇。

UIJターンが多い福岡県ならではの、北九州の工業製品に惚れ込んで東京から移り住んだ者、配偶者についてくるも、東京に帰りたいと泣く者、ベトナムから出稼ぎに来ている者、地元の職業人や学生、ヤクザ……彼らが時にすれ違い、関わり合いながら、物語は進んでいく。街は祭りの前。それぞれが自分の「居場所」を探しながら、生きていく。


ここから個人的な感想。

正直言って、ここまで感情移入した芝居は初めてだったかもしれない。

暗転はたしか3回ほどあった。(暗転がある芝居というのが最近少ないような)

最初に暗転した時に、お、暗転だ、と。というのも、冒頭のシーンは暗転を挟まないで始まり、登場人物が白い服を着てかけあいを重ねながら交差していくというスタイルで、その間客席の照明はゆっくり暗くなっていった。

暗転を挟むと、そこで観客の集中が途切れる、というのをたまに聞く。

実際そうだと思う。この芝居ではこれが効果的に使われていたのではないだろうか…


その暗転で、あ、この物語はあと1時間半もすれば終わるのか、と気付いた。

むしろ、そこまで完全に失念していた。初めこそ回転舞台でころころと変わる舞台上の風景に目を取られていたものの、俳優の演技のリアリティ(もちろん観客に声を届けるために声の張り方はしてるが、観客はすぐにそのレベルを自然と捉えるようになる、慣れる)から目が離せなくなっていた。

僕が子どもの頃によくあった、「この登場人物の一生をずっと見ていたい」という感覚。


最も中心に描かれていた人物は、恐らく設定の年齢が僕と近く、外見も言葉からもとらえどころのないような印象を受ける彼は自分の「居場所」を常に探していて、どこにでもいてどこにもいない、モラトリアムを生きていた。

物語の結末は、彼が「ここ」を出て行く決意を、父親に話すところで迎える。女子高生との会話で達観していたような彼も、人知れず不安や迷いを抱えていた。思えば、登場人物の中で唯一、舞台となる小倉の街から出て行く人物だったのではないか。小倉で上演するにあたっても、もちろんそれは否定的には描かれていないし、彼の存在が、「小倉推し」のこの芝居を綺麗にまとめていたように思う。


そういえばふと、去年熊本で観た「義務ナジウム」を思い出した。

あれは古い習慣に囚われた村にやってきた人や元々の住民の関わりを描いていて、しかし最後はその習慣を否定しながら村の一人が出て行く決意をした。つまり、集団の崩壊。「彼の地」との違いは何だろうか。


「彼の地」で生きていた人物はみな「自由」だった。

(ここからは感想ですらなくなる)


上に書いたように、福岡にはUIJターンでの移住者がどんどん増えてきている。

東京で会社勤めをしていたが、福岡で企業、あるいは、福岡の新進気鋭なベンチャー企業、他にも、地方テレビ局等のマスコミへの転職や、「彼の地」で描かれていたように、その地方でしか作られていないモノ、というのは多くある。東京に比べて、地方での仕事は自由度が高いと聞く。東京の大企業で幹部まで上り詰めた人が、「退職前に何かを作りたい。一花咲かせたい」と、広島の中小企業に転職するとか。


集団内では多かれ少なかれルールができる。「義務ナジウム」の村ではそのルールで縛られた生活が苦しくて、外へ出る若者がいた。しかし、そこで生きていく者も多くいる。それは不自由の中にも自由があるからで、自由といえども、際限はある。集団が変わればルールは代わり、自由度に差ができる。自由とは何か。


最近読んだ「ユダヤ人大富豪の教え」と、「人生の地図」

その両方で共通していたのは「やりたいことをやれ」と。

金持ちは決して金に執着していない。

「相手を喜ばせること。やりたいことをやること」を大事にしているという。

ビートルズもイチローもユダヤ人の大富豪も、決して金欲しさにその職業を選んだわけではない。

「彼の地」で幸せそうに生きる彼らも、各々の理由で選択・決断をして、今があり、その後があるのだろう。


美談かもしれないが、この1ヶ月あまりで自分の「居場所」を探すためにいくつかの決断をした僕には、ありがたすぎる言葉で、とても身に沁みる体験をした。

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