「時代」感、古い戯曲の上演
今日は九大演劇部の後輩の新入生歓迎公演を観に行った。
新3年生、つまり2つ下の代の演目は岸田國士の「紙風船」で、90年も前の戯曲。
僕が以前参加した戯曲解釈のワークショップで扱われていたこともあって、演出を楽しみにして行った。
初々しい夫婦の会話。
縁側で夫は本を読み(これ、戯曲では新聞だった気が)、人一人入る程度のスキマを開けて、妻が裁縫をしている。既に、なかなか現代では見られない光景。
夫は本を「音読」する。
妻は反応し、退屈な日曜日、どこかへ出かけようと言うが、夫は色々と理由をつけて出かけない。話しているうちに、会話の中で「お出かけごっこ」が始まる。楽しげに持ち物や移動手段、風景を語り合う2人。しかし、持ち金の少なさを妻が指摘し、がっかり、といった感じ。
妻はよその夫婦と自分たちの生活があまりに違うことを愚痴のようにもらす。夫も思いの丈を明かす。
と、妻がポケットから紙風船を取り出して(この上演ではマイム)見えない子どもを呼ぶ。夫も妻とともに見えない紙風船で遊びだし、暗転…
感想
まず、役者2人が、当時の言葉遣いを自分の身体に落とせていない。たぶん、これが古い戯曲を今若者が上演する時に一番難しい点なのではないかと思う。「するてえと」なんて江戸っ子みたいな言葉を使っていながら、身体は「するてえと」と言ってない、みたいなところで、演技に隙ができていく。
演出に関して。
ラストの紙風船の扱いの着地点が見えなかったように感じた。
まずこの演出は、僕が受けた戯曲解釈の時の演出家さんとは違うところに落としているなとは思った。それは間違いではないと思うし、それこそこの戯曲の優れた点だと思う。
その演出家さんの解釈では、見合い結婚が当たり前だった時代に恋愛結婚をした若い2人、まだ働き出して間も無く貯金も無い夫、当時にしてはやはり珍しい女学生だった妻、子どもを作ることなど考えにも及ばず、恋愛と結婚の区別もつかず、日曜日を持て余す。そんなところに外から紙風船が飛んできて、子どもが追いかけてくる。妄想はそこで終わり、2人は子どもの存在を意識することで、「夫婦」として次のステージへ進む…
そういうストーリーだった。
今回の演出では、次のステージへ進むどころか、金も無い、夫婦の中も上手くいかない、子どもの遊び相手をして、やっと仲良くなれるが、この時間も長くは続くまい…そんな絶望的なものさえ感じた。
演出家の感性の違いだろうか、俳優の感性がどこまで関わっていたのかも曖昧で、個人的には腑に落ちない演出だった。
さっきの話に戻る。
昔の戯曲の言葉だが、例えばこの「女学生」という単語。これは、現代ではありえない。つまり、2人が生きているのは昔なのである。舞台上は虚構世界で、客席と異なる時間が流れているのはよくあることだし、ルールも違っていい。ファンタジーもできる。ここに対する意識が低いと、言葉は宙に浮き、「女学生」が持つ力は消える。それは、当時の若い女にとっての「キャラメル」であったり「カルピス」に対しても同様で、せっかく戯曲の中で90年前に生きていた登場人物が、皮肉にも俳優の手によって命を宿されたことにより死んでしまう。
なぜ、昔の戯曲を現代で上演するのか。
学生にはもっと昔の戯曲を扱ってほしいと思う反面、この問題を乗り越えるのが限られた時間では困難で、時に不可能であるとも感じる。
この前出演した「飛龍伝」は安保闘争(シールズじゃない方)を扱ったもので、演出家の65歳のおじいちゃんは、当時の熱さを今もまだ持っていて、それを芝居にぶつけていたと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?