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「チョコレート屋さんへいってきます」
「デパート」と「チョコレート屋さん」
懐かしさと新しさとまだ見ぬ外の世界へのキラキラした憧れを感じさせる単語として挙げられるのがこの二つ。もちろん私の個人的な感想として。
ある朝、近所のチェーン店のカフェに1人でいた時のこと。
少し離れた席でご婦人3人組の話し声が聞こえて来た。70代くらいだろうか。オシャレで元気で上品な雰囲気で、あんな風に歳を重ねるのも良いなと憧れを抱いた。
私はカフェで読書をすることが唯一と言っていいほどの趣味であり娯楽であり精神バランスを保つものであり、この時間が持てないと私は病んでしまうのだけれど、ついつい他人の話に耳が傾いてしまい、本は持っているだけになることが多々ある。
ご婦人グループから聞こえてきたワードがなんだか可愛いくて平和な気持ちになった。
「○○が、チョコレート屋さんに行くって言ってね、出かけたの」
”お出かけ先がチョコレート屋さんだなんて”
と、私は1人ときめいた。
今は商業施設にいろいろなお店がひとまとまりになっていることも多いし、〇〇屋さんというより固有名詞で呼ぶことのほうが多いような気もするし、だからなんとなく子どもの頃を思い出した。
私の子どもの頃というのは、大体30〜40年前のことだ。ど田舎で暮らしていたことも相まってか、スーパーもコンビニも、車じゃないと行けない距離にあった。商店街もなかった。近所にあったお店はすべて近所の人が経営している小さな個人商店。
牛乳屋さん、新聞屋さん、呉服屋さん、線香屋さん、お花屋さん、たばこ屋さん・・・ケーキ屋さんはなかったけれどケーキはたばこ屋さんで一緒に売っていた。日本酒以外のお酒も置いていたり、雑誌も少しだけ販売していた。
家庭にインターネットはないに等しい時代だったし、本屋さんも車に乗せてもらわないと行けない地域だった。ど田舎のどこを見渡してもいつも同じ人で大体が知り合い、または家族の誰かと繋がっている。色々な人に出逢いようも見かけようもない地域において、いくらテレビは見放題な家庭だったとはいえいま思えば外の世界から遮断されているかのような偏った世界で生きる情報弱者だった。
住んでいる地域の価値観が子どもにとってはこの世の全てと勘違いしそうな世界。その地域で生まれたにも関わらずどこか馴染めなさを感じていた私にとっては、雑誌は外に知らない世界が広がっていることを知らせてくれる唯一の存在でどこかキラキラして見えた。
就職を機に外に出たのに退職して20代半ばで実家に出戻ったという父は、祖母や近所の人たちにチヤホヤされ気まま、居心地がすこぶる良さそうで、何も偉くないのに偉そうだった。自分に都合が悪いことが起きるとすぐブチギレることに私は幼ながらにうんざりし、そのくせ、他の人が怒ったり喧嘩したりしていると何故か大人ぶって冷静なこと言ったり仕方ないなーと妙に上から目線で笑ったりしている父の様を近くで黙って見るしかない状況に嫌悪感を抱いた。
祖母は父をなんだかんだ庇っていたし可愛がっていたし、近所の人たちへの気配りや愛想の良さは素晴らしいものだった。その甲斐あってか、父は常に地元で意気揚々と暮らしていた。祖母は晩年になって何か思うところがあったのか「あんな極楽な人生を送っている人間は見たことがない」と呆れたように私にこぼしたことがあった。あの言葉を聞いたのはかれこれ20年ほど前のことだが、今でも私は祖母に同感だ。
言うまでもなく、父が極楽に過ごせる地域は小さな小さな世界の中に限る。だから、外の世界につながる電車に乗るだけでとてつもなくばつが悪そうった。もとより、電車には滅多に乗らなかったし今も乗らない。
私は田舎暮らしが壊滅的に向いていない。
田舎には田舎なりの世間体があり、そこにピンポイントで合わないのにそこで生きるしかない者にとっては地獄だ。特に子どもは逃げようがない。
不特定多数の人が混在していて様々な価値観に溢れていて、流動性もある都会の居心地の良さは少なくとも地元にはない。
私の子どもの頃の夢は、とにかく便利なところに住むことだった。徒歩圏内に電車の駅があって、スーパーがあって、病院があって、本屋さんがあるといいな・・・。狭くて限定的な地域の中で生きていた小学生にとって、近所にあるといいななんて思う場所はこれくらいしか思いつきようがなかった。
今の私の暮らしに欠かせない存在の、気楽に1人で入店できてのんびり読書ができるチェーン店のカフェの存在すら知らなかった。
ただ、とにかく、車に乗らなくても全てが揃っている所に住みたいと思ったのだ。そして、そんな天国みたいな所がこの世に存在するのだろうかとも思った。
大人になって知ったことは、そんな天国みたいな所は日本国内に結構あるということだ。そして、そこは別に天国ではないかもしれない。でも、子どもの頃の私から見ると、今の私は天国に住んでいると堂々と言える。この家の何が気に入らないんだと激怒した父に猛反発して実家を飛び出せて、本当に良かった。電車に乗ることを心底怖がっているような父は追いかけてこれない。
実家を出て、数年後の早朝、突如母から電話がかかってきた。
私と心から向き合って受け入れてくれて、お喋りをしたりデパートへ連れていってくれたり喧嘩をしてくれた唯一の大人であったおばあちゃんは、うつ病で他界した。
おばあちゃんはハイカラという言葉が似合うオシャレで上品で可愛らしいなんとも憎めない人柄だった。ちょっと毒づいてもいたし好き嫌いもはっきりしていたけれど、愛され上手だった。葬儀の日にはこの地域で今まで見たことのないほど参列者がいたと父が自慢げに話していた。
ど田舎な地域には珍しく、祖母は月1ペースで「デパートへ行ってきます」とバスに乗り電車に乗り、片道1時間以上かけて大都会へと出掛けていった。
定期試験最終日の高校の帰りに待ち合わせして一緒にデパートへお出かけして、楽しそうに私の服を選んでくれたのももおばあちゃんだった。その時は、お買い物はここのデパートで、ランチはあそこのデパートに美味しいお寿司屋さんがあるからとさらに電車に乗って移動した。
いま思えば、外の世界を見せてくれたのは雑誌以上に祖母だったのかもしれない。色んな種類のパンや焼き菓子をお土産にいつも買ってきてくれた。ついでにご近所へも「デパートへ行ってきたの」とあれやこれやと近所では売っていなさそうなお菓子を配っていた。おそらくこれは、畑をやっている近所の方たちからいつもお野菜や果物をたくさん頂いているお礼代りだったのだろう。
「デパートへ行ってきます」というフレーズは、祖母からしか聞いたことなかった幼心になんとも憧れのフレーズだった。
幼い時、何度も母にデパートへ連れて行ってもらったことはある。母は都会の出身で、時々逃避するかの如く幼い私と妹を連れてデパートへ行っていた。妹はまだベビーカーに乗っていたほどの幼さで、駅の階段などで必ず誰かがベビーカーを運ぶのを手伝ってくれる人が現れたことを覚えている。母はその時とても嬉しそうに感謝していた。自分の好きなものをデパートで見ている時が楽しそうだった。私たちには1000円分好きなものを買っていいよとあれは確かサンリオの売り場へ決まって連れて行ってくれていた。だから、私はクラスの中で一番いろいろな便箋やメモ帳やシールを持っていた。だから何という話だけれど、手紙を交換する友達は常に10人以上いる時期があり、色んな子と便箋とかメモ帳交換をしていた。その数は仲のいい友達の数より多かった。宿題よりも手紙を書く時間の方が圧倒的に多かった気がするけれど、手紙を書くのは一向に下手なままだ。サンリオで選んでいる時はワクワクしたけれど、母は隅っこでつまらなさそうに立っていたからちょっと急いで選んだ。中学生くらいになって、私の服を買いに連れて行ってもらった時もお店の外でつまらなそうに立っていた。自分が欲しいものを選ぶときは子どもそっちのけで楽しそうだった。
祖母は、私のものも自分のものも、楽しそうに嬉しそうに一緒にあーだーこーだと選んだり見たりしていたし、店員さんとのお喋りもにこやかだった。その上、お勧めされたものが気に入らないときはスパッとお断りしていた。
デパートは今も存在しているのに「デパート」という言葉自体は最近あまり聞かなくなったし言わなくなった気がする。固有名詞の方が多いだろうか・・・。
カフェで話しているご婦人グループの中のお一人がどうやら自由が丘で住んでいるらしい。すると他のお二人が「住んでいると分からないかもしれないけれど、自由が丘はブランドよー。デパートでいうと伊勢丹みたいなものよー」と話していた。「あら、そうかしらね」なんてことを話しながらあーだこーだと話は続いていて、私は1人本の世界へ舞い戻った。