「生きているテキトーさ」戌井昭人について

ふとしたことからここ数年、日本文学を熊が水飲むかの如く読みあさった。素通りしていた古典から毎年の文学賞まで順序無視の乱読に頭の中は履物が散乱した銭湯の玄関みたいになったが、実に愉快だった。
 で、戌井昭人(いぬい・あきと)が好きになった。『すっぽん心中』を皮切りに、『ひっ』『どろにやいと』『ぴんぞろ』。ひたすら爆笑、ただただ感服、いずれも芥川賞候補と知り膝を打ち、デビュー作の『まずいスープ』に戻り、『ゼンマイ』は雑誌発表時にチェックした。
 何よりもリズムが合うのである。音楽や小説、ラジオ番組やアイドルなど、趣味が合う友達が赤面話を苦笑して話している雰囲気。架空の映画や楽曲のリアリティーは異常におかしく、女性登場人物の魅力は尋常でない。粗忽でグータラな男が大体は主人公で、彼らは危ない世界との境にいたりもするが、不思議に上品で誠実でもある。
 『ひっ』に戌井文学の神髄のようなせりふがある。自堕落に生きる主人公は「ひっさん」と呼ばれる伯父さんにとがめられ、「テキトーに」生きていくと返答する。実はこの伯父さんこそテキトーを具現化したような男なのだが、ひっさんは何と「お前のは、テキトーが死んでる」とのたまうのだ。それでも結末で「死んでないテキトーさ」を主人公は感じ取ったようにも見え、そこには何とも言えない幸福感と開放感が漂うのである。
 さて、この戌井氏、別府と浅からぬ関係があるのだが、それについてはまたの機会に。
(2020年4月21日「GXPRESSビジネス」掲載)
 

【補遺版:別府の戌井昭人】 

 戌井昭人と別府の関係を「またの機会に」と書いたが、俗に言う「またの機会に」に本当になってしまった。「またの機会に」は、まあ、まず実現しない。会う度に「今度飲もうや」とお互いに言い続け、結局20年以上飲んでいない旧友が僕には数人いる。そんなもんだ。悪気はない。
 最初は「1年以内に」と思い、実際に書いてもみた。ただ、新聞コラムには「約670字」という制限があり、どうしてもはみ出してしまう。凝縮して強度が上がれば良いのだが、能力不足はいかんともしがたく、幼少期に書いた昆虫の絵のごとく、胸の部分がなくて、いきなり腹部が頭につながり足が不格好に生えたような文章になり、嫌気がさして消してしまった。
 「戌井昭人 in Beppu」は、二つの文章で知ることができる。一つ目は小説『のろい男 俳優・亀岡拓次』(2015)。『俳優・亀岡拓次』(2011)の続編だ。地味な脇役専門だが、多くの監督に重宝され、仲間に敬われる映画俳優の亀岡拓次が、撮影現場やロケ地で巻き起こす爆笑エピソードを、リズム良く連ねた快作で、戌井の真骨頂はこの「亀岡シリーズ」にあると評価する人もいる。これら二つの小説は安田顕主演で映画化され、地味に、しかし「分かる人には分かる」という感じで、それこそ亀岡拓次的な評価を得た。
別府が登場するのは、『のろい男』の第一章。タイトルは「かぼすと乳房―大分」だ。「かぼす」は良いとしても、何だい、「乳房」って?しかしこれが面白い。亀岡らしさが最も炸裂する最強エピソードだ。ただ、内容的には、大学教員が勤務先のHPでその詳細を記すのが難しい。
ヒントとして映画の話をしよう。映画版『俳優 亀岡拓次』では別府のシーンはカットされた。原作では、亀岡がかつて舞台で共演した大女優(映画では三田佳子が演じている)を、別府で経験する出来事がきっかけに思い出す。つまり別府はプロット上、非常に重要な存在なのだ。映画での「別府カット」は、そんなわけで、致命的ミスなのだが、「いたしかたないか」とも思う。というのも、別府のシーンをそのまま映画化してしまうと、間違いなくR指定になってしまうからだ。
原作では、別府滞在中、亀岡は温泉をはしごし、居酒屋を転々と飲み歩く。ある夜、「さしみにかぼす」の黄金タッグで焼酎を飲んだ亀岡が、ひとりふらふらとご機嫌に歩いていると、あの「やよい天狗」(R指定方面だ)の所で、怪しげなおばあさんに声をかけられて・・・という展開。
主人公が日本のみならず世界各地を飛び回る『亀岡拓次シリーズ』で、僕が唯一感じる違和感は、各地の地元の人々が、標準語に近いことばを話すことだ。しかし、この「かぼすと乳房」は別で、そのおばあさんは大分方言を話す。「あんた、どっかで見たこつあるよ」、「ほれ、あれ見ちょくれ」などのセリフが続くのである。
まあ、古い街には、当然だが、いろいろな歴史がある。別府みたいな歓楽の街は、それそこ特異な歴史を持つ。非難されたり否定されたりするものもある。現代のコンプライアンスに照らすと、現実には存在していてもフィクションからは削除されるべき要素もある。しかし、そんなものも含めて、いや、逆説的に、だからこそ、別府という街はずっと生きてきたわけで、道徳や常識に沿って割り切って考えられないところに別府の魅力はあったりもする―そんなことを意識させてくれるのが、この「かぼすと乳房」なのである。
 

 『まるで湯けむり。 別府を訪ねた3つの短い旅の記録』という冊子がある。持っている人はそんなに多くはいないだろう。僕は大学広報の石川さんのおかげで持っている。それが「別府の戌井昭人」を知る二つ目の資料だ。BEAMSが別府市協力のもと作成し配布した、この無料の冊子には三篇の秀逸な紀行文が、プロ撮影の印象的な写真とともに載っているのだが、そのトリを飾るのが戌井の「極楽酩酊別府地獄」である。
 戌井自ら「おっさんやさぐれ旅」と書いているように、写真家の田附勝と二人で、別府をうろつき飯を食い、湯につかり、酒を飲みながら別府の人間と語らい、酩酊し、夜が明けると二日酔いでうろつき、また温泉に入り、人々とまた語らい、そして再び酒を飲み飲み飯を食い、そして必ず酩酊する―このサイクルを繰り返すだけのグダグダの旅をただ記しただけのものである。しかし、これがやっぱり本当に、信じられないくらい面白い。こんな芸当ができるのは、戌井昭人と田中小実昌だけだろう。
 「飛行機で別府に上陸しても味気ない」と、戌井はわざわざ四国にいったん渡り、そこからフェリーでやってくる。そうとうの年寄りでなければ、別府ネイティブも認識していない「港町としての別府や「別府と四国の関係性」に戌井は本能的に気づいているのだろう。笑えるのは、松山に八幡浜、さらにフェリーの中での様子までを脱力の文体で書いていることで、もうその時点で戌井ワールド全開なのである。余談だが、戌井と同じ年齢の、作品の特徴で言うと戌井の対極にいる作家の円城塔も大阪から船で別府にやってきた。作風は違えど、大作家は共通する感性を持つのである。僕なんか、もう35年も別府発着のフェリーに乗っていない。反省しよう。
 別府到着後は、脱力の文体もさらにその光を増し、「おっさんやさぐれ旅」が大爆発。彷徨のBGMは森進一の「港町ブルース」にドリフの「いい湯だな」。なんとも戌井昭人らしい。「別府タワー」に始まり、「別府駅市場」、「紙谷温泉」に「チョロ松」、「競輪場」に「喫茶なつめ」、なぜか「東保ボクシングジム」、「保養ランド」に「九丁目の八ちょう目」、そして「茶房たかさき」・・・もう出るわ出るわ、別府民にとっては、ただただ誇らしくなる固有名詞の連続速射。そこに必ず笑いを入れてくるのだからたまらない。
 戌井小説の最大の魅力は人物描写である。主人公はもちろんのこと登場する人物達がすべて、魅力的なのだ。愉快でエキセントリックで一生懸命生きている、そんなかわいらしい愛すべき人物たちである。「極楽酩酊別府地獄」では、戌井が出会った別府市民たちが、小説の登場人物のごとく描かれている。泥酔と二日酔いの目で戌井が見つめる別府市民は、愉快で、かわいらしくて、ちょっとエキセントリックだけど実に愛すべき人たちで、やっぱり皆、一生懸命生きている。一番笑わせてくれた別府市民は、やよい天狗のおばあさんのごとく、深夜の路上で戌井の前に突然姿を現した二人の若者である。「おやじ狩りか?」と身構える戌井に、若者は元気に「ドーナツを買ってください!」。酔いも回って「心が南国状態」の戌井は「ハイ買いましょう」。その後で「それにしても、あの若者たちは、何だったのでしょう?」。ドーナツは別府の名物でもなんでもないが、ものごとの進み方が別府らしいと言えば別府らしい。
 旅の最後に戌井は次のように語る。
 
  別府温泉は、極楽なのか地獄なのか?飲みすぎて多少の地獄を味わいましたが、3日間のことを思い返すと、この街の魅力は、やはり現世から少し離れたところにあるのかもしれない、などと偉そうなことを思って、頭の中では、「ババンババンバンバン」が流れていくのでした。
 
 「現世から少し離れたところ」は、「かぼすと乳房」でも戌井が描いた別府の魅力である。多分、その魅力は、別府出身の人間には気づけないものなのかもしれない。だって、「現世から少し離れたところ」が、別府の人間の「現世」なのだから。そういうわけで、戌井昭人のような敏感で愉快な訪問者のおかげで、その稀有な魅力を認識させてもらえるのは喜ばしいことであり、その結果、僕たち別府ネイティブは、本当に「誇らしい」気持ちになるのである。

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