大六天から徳川慶喜へ
なぜ棘がこの日進の岩崎町に移転してきたのかということに心を澄ましているうちに、
白山、御嶽のこと。
そして、私、夫になぜ白羽の矢があたったのか、
その私たち自身のルーツにも心を澄ましてたどっています。
そして大いに脱線してゆく(笑)
そんな、誰が興味があるのか分からないあれこれ、とにかく私にとって面白かったいろいろなことをちょっと綴ってゆきたいなと思ってます。
お暇な方はお付き合いください。
昨年の夏、埼玉の夫の実家に帰省した時、
ルーツが気になる今の私としては、出生の地を見てみたいなと思い、生まれた病院に寄ってもらいました。
それは所沢の「星の宮」というところで、
それもそれでまた面白いシンクロがありそうなんですが、今日はそれではなく、
そこからほんの少し行ったところにあった「大六天」という交差点に心鷲掴みになりました。
「星の宮」に続く「大六天」!
もう私の中では映画・銀河鉄道の夜で、銀河鉄道が降りてくるあの果てしなくがらんとした丘が頭に浮かび、
夫が生まれたところは星に届く銀河鉄道が発着するようなところじゃないかしらん!と乙女心に火がついてしまいました。
そして興奮冷めやらず、密かに大六天とはどういう場所なのか調べてゆきました。
大六天信仰というものが関東限定で庶民の間でその昔広がっていて、大六天神社というのがあちこちにあったそうです。
所沢のこの地はとりあえず大六天という石碑が立っているのみで、神社跡地であったのかどうかはもはやよく分からないとのこと。(!神社後ではなく本当に大六天の入り口だったりして。だとしたら本当に銀河鉄道の乗り場!)
大六天とは、
仏教で人間界の上の天上界のうち、人間界に近い六つを指し、そこは未だ人間界まで同様欲望に翻弄される世界で、そこを第六天(大六天)という。
そこを司っているのが大六天魔王という存在で、
悟りを開く直前の仏陀に降魔という、悪魔がそそのかしてきたと言われるその悪魔こそ大六天魔王とか。
別名の他化自在天の自在天はシヴァの別名でもあり、時に強い破壊をもたらすも、それが大きな恵みとなり、実は仏の道を進ませてくれる強い力を持つのだそうです。
欲望の真っ只中でこそ、人は神性を知るという感じなのでしょうか。
その導きの力を持つ大六天魔王をお祀りする大六天信仰が民間に広がり、関東限定で300もの祠があったようなのですが、今はほぼないです。
欲望を司る大六天魔王をお祀りすることは本家の仏教ではなく、密教の類いになり、本家からはきっと避けてほしいという理由なのか、
ほとんどが中身を変えられて、七福神やら神社なにやらかにやら、仏教でもなくなって何でもかんでもに変わっているようです。
さて、大六天、
夫と何か意味があったりするのかな?としつこく見ていました。
都内で住所に大六天と付く場所を調べたら、唯一文京区小石川の第六天町(現・文京区春日)
ここは夫が多感な子供時代から大人になるまで長く育った場所と歩いてすぐの目と鼻の先!
そして、第六天町は徳川慶喜の屋敷跡で、慶喜終焉の地なんだそう。
おー、徳川慶喜と大六天…
夫と大六天はイマイチ繋がりまだ分からないけど、
徳川慶喜と大六天はなにか感じるものが。
そこから徳川慶喜について気になって、いろいろ読んでいました。
この激動の時代はまさに欲望渦巻く時代で、外国人まで含めいろんな立場の人が自分の立場を有利に持っていくために働きかけをしてくる圧がすごい。
そんな時はこっちを立てればこっちが立たずで、どうしたって嫌われて、批判されて、
息つく間もなくいろんなことが次々起きて、
大変なお立場。
それが予測できたし、激情型の父親を冷ややかに見ていたこともあり、
本人は将軍職にずっと及び腰だったのに、そうもいかず受け入れて、時に気合い入れてリーダーシップ発揮してみてはうんざりするような事態になり…と、
彼について書かれたものをいろいろ読むと、ホント政治家ってたぁいへんだなぁ。と。
そのいろいろはつまり、勘弁してよと思っていても、人間やってるからこそ起きるいろいろで(にしてはスケールが大きすぎだけど)、
それを天界で治めている第六天魔王を信仰する土地と場所を同じくするところにおーと思ったわけです。
第六天信仰がこの世のいろいろによる苦しみを、同様にいろいろ起きる天界を治めている魔王に手を合わせるという意味合いの信仰なのなら上記だし、
欲望にとらわれることを良しとしたいという意味で魔王を信仰するという民間信仰なのだとしたら、
でもそれはそれで慶喜〜とも思える。
大政奉還後、明治の世になってからは、政治にはもう顔を出さず小石川の広大なお屋敷でカメラなどの趣味三昧。子どもは21人(正室1人側室2人みんな仲良く暮らしていたとか)
たぶんずっと念願だった、好きに幸せに生きるを果たしたのだと思う。
権力や名誉ではなく。
大六天信仰を問題視する人は、例えば「欲望のままに生きる」をとんでもないことになると問題視しているのかもしれないけれど、
欲望そのものはきっと社会を破壊するような類のものにはならず、
人が幸せならその欲望も幸せなエネルギーでもって社会全体に調和しながら波及してゆく良いものなんだと思う。
欲望がとんでもないことに発展するのは欲望を抱く元の人間の歪みの方が問題なのでは。
なので、欲望そのものを封じるのではなく、歪みの方に着目すれば良いのだと思う。
幕末、いろんな人たちの欲望や不安、自らの中にあるものの渦をアップアップしながら泳いでいた慶喜氏が最後にたどり着いた欲望の世界はきっと幸せな欲望の世界で、
あちこちで嫌われ批判されだったらしい慶喜の姿勢は当時の人からは理解不能の困った人、だったかもしれないけれど、それはとても大事な感性で、しかもこれからの水瓶座時代に通じるような新しさを感じる。
慶喜のあり方って水瓶座っぽいね。
昨夏、目に入った大六天、そこから徳川慶喜のキーワード。
一年なんとなくいろいろ追ってきてみて、
私にとって、
この世界、欲望を持って、好きに生きていっていいんだよ、大丈夫だよっていう新しい時代へのメッセージなのかなと思いました。
徳川慶喜のホロスコープも気になって調べたら面白かったので、
続きはまた〜。
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