#山に十日 海に十日 野に十日 4月
二百年前のウイルス
屋久島でコロナウイルスの感染者第一号が出たのは、2020年(令和2年)8月19日。その年は10人で収まったが、翌2021年(令和3年)には1年間で71人。そして今年2022年(令和4年)は、4月1日現在で221人。なかなか収まる気配がない。発生当初、三年もしたら終息するのではないかと淡い期待を抱いていたが、長丁場になりそうである。冷静に、そして寛容に、付き合っていくしかなさそうだ。
だが今日という日を生きている現代人にとって、コロナウイルスはまさに青天の霹靂。「どうして私たちが生きているこの時代に!」と、大いにとまどい狼狽えたりするわけだが、過去を振り返ってみれば、人類の歴史はウイルスとの格闘(共存?)の歴史でもある。屋久島とて例外ではなく、200年ほど前にウイルスに見舞われている。当時の人々が「疱瘡」と呼んで恐れた、天然痘ウイルスである。
特に宮之浦集落で猛威を振るったようで、随所にその痕跡が残っている。痕跡というのは、疱瘡退散祈願の「石塔」で、集落にとって祈りの場である牛床詣所には、約五十基の奉納塔が祀られている。中でも天保年間(1830─1843)に寄進されたものが六基と多く、その時期に流行のピークを迎えたのだろうか。詣所は、岳参りの送迎所でもあり、静寂に満ちた空間でひときわ目立つのが、1843年(天保14年)に奉納された「一品法寿大権現」の石塔。廃仏毀釈の難を逃れた仁王像に守られ、歴史の語り部として鎮座している。
奉納塔が祀られているのは、里地だけではない。標高1600mの花之江河にも、宮之浦の若者たちが担ぎ上げている。黒味岳を望むその高層湿原には、宮之浦村の石塔だけではなく、栗生村や楠川村(つい最近湿原の中から発見された)の奉納塔も祀られているから、疱瘡の流行は全島に及んだのかもしれない。さらには、宮之浦から40kmも離れた尾之間集落の温泉神社にも石塔が運ばれている。同神社に奉納したのは、当時尾之間温泉が「流行り病に効く」とされていたからであろう。山の神に祈り、さらには疫病に効能があるとされた温泉にすがる・・・、宮之浦の人たちの逼迫した心情が伝わって来る。どちらの石塔も、天保15年(1844年)に奉納されたものである(天保15年という年は、弘化元年に改元されたが、島ではまだ天保が続いていた)。
ウイルスの爪痕を残す石塔は、さらにもうひとつある。それは、薩摩藩の統治を物語る「檀那墓」の墓石である。天保6年(1835年)4
月に赴任し8月に病死した、屋久島奉行中村四郎太。享年71歳。「秋岸院清涼日英居士」という戒名は、いかにも疱瘡での死者を弔うのに名づけられた戒名のように思える。そして天保9年(1838年)に赴任した奉行も、その翌年には病死している(享年80歳)。
過去を振り返ると、いつでも受難の時代があり、ヒトは何度もその試練を乗り越えてきた。二百年前の屋久島も大変な時代だったに違いない。だがそれでもぼくらのご先祖たちは、苦難を乗り越えて生きながらえてきた。明けない夜はないのである。
ぼくらはこれから先も、生き物としての分をわきまえながら、謙虚に生を積み重ねて行くしかないのだろう。ウイルスと共存しつつ。
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長井 三郎(ながい さぶろう)
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に「屋久島発、晴耕雨読」。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。