見出し画像

#山に十日 海に十日 野に十日 5月

家畜と暮らした日々

かつてこの島には、たくさんの家畜がいた。ぼくの父は、馬と豚と鶏を飼っていた。隣のTさんは羊を飼っていて、その先隣りのKさん家にも豚と鶏がいた。どこの家にも、なにがしかの家畜がいた。自給自足の島暮らしの中で、家畜を飼うということは「当たり前のこと」だった。

父が馬を飼っていたのは、田んぼの犂起こしのためだった。誰それの田んぼの犂起こしを請け負い、そのお礼に稲藁をいただく。その藁で爺が縄を綯い、営林署や森林組合に売って稼ぎとしていた。 
一日中、足踏み式の藁綯い機に座って縄を綯う爺の姿が、馬の大きな瞳に映っていたことを、もう60年以上も前のことなのに鮮明に覚えている。

昭和という時代には、隠居した爺にもちゃんと役割があったし、小学生のぼくにもやらなきゃいけない事があった。豚の餌となる「残飯」を、近所の家や商店から貰って回るのである。遊びたい盛りであったが、年中無休。学校が終わるとすぐに、一斗缶をぶら下げて回る。集めてきた残飯を大きな鍋に入れ、木っ端切りにしたカライモと一緒に煮て、豚に喰わせるのである。
そんな毎日の手伝いに嫌気がさし、ある日ふてくされて賄ったことがある。するとぼくのイライラが豚に伝わったのか、翌日から食欲が減退。みるみる衰弱していった。獣医に診てもらったが、原因がよく分からない。夏バテかもしれないと栄養注射なども打ってもらったが、ますます弱り果て、結局屠殺することに・・・。

解体してみると、なんと残飯の中に大きな木綿針が入っていたらしく、胃の壁を突き破った針が、肺に突き刺さっていた。「まさか針が混入しているなんて」と父は絶句したが、ぼくは「針に気付かなかったのは、嫌々した所為だ」と、少し落ち込んだ。
だが「病気じゃなかったから、肉として出荷できる」と獣医が言い、我が家はその夜、久しぶりの肉料理に舌鼓を打った。

生き物を飼うということは、大変なことである。大学卒業後帰郷したぼくは、自給自足生活にあこがれ、すぐに山羊や鶏や兎を飼い始めた。
(その辺のことは、「屋久島発、晴耕雨読」という本の中に書いたことがあるので、いつか読んでもらえたらありがたいです)
何が大変と言って、草切りや四六時中の世話もそうなのだが、腹が減ると金切り声を上げて、鳴き喚くのである。周りを人家に囲まれた町中で飼っていたため、まさに「近所迷惑」であったことだろう。だが周りはみんな、元から住んでいる人たちばかりだったので、誰からも面と向かって文句のひとつも言われなかったけれど・・・。

だがある日、困ったことが起きた。飼っていた兎が逃亡したのである。土手を背後に小屋を造作していたので、どうやらトンネルを掘って逃げ出したらしい。裏手に住んでいた営林署の奥さんが怒鳴り込んできた。「家庭菜園が、全滅した!」と。
逃亡兎をなんとか捕獲し、平謝りに謝って帰ろうとした時、「山羊の鳴き声もうるさくて我慢出来ないのよね!」と、背後から怒声を浴びせられた。

「もう飼うのを止めるしかないのか?」。
悶々と一夜を過ごし、翌日小屋を覗くと、落盤事故があったようで別の兎が一羽死んでいた。
「馬鹿だね。ちゃんと地質調査してから穴を掘らないと・・・」。

以前、腰麻痺で死んだ山羊の横に葬ってやろうと穴を掘っていた時、「待てよ」と閃いた。
その兎を後ろ手に持ち、謝りに行った。奥さんはまだ怒りが収まらないようで、不愛想だった。
「一晩考えたんですが、ここはやはりきちんとケジメをつけることが肝心だと思いまして・・・、殺しました!」と、その死体を目の前に突き付けた。まるで漫画みたいに、奥さんは飛び上がった。
以後二度と怒鳴り込まれることもなく、その後もぼくは家畜を飼い続けた。もちろんその兎は、布にくるみ丁重に埋葬した。
「お前の死は、無駄ではなかったよ」と。
…………
長井 三郎/ながい さぶろう
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に『屋久島発、晴耕雨読』。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。