#山尾三省の詩を歩く 3月
1990年春に書かれた詩。春の海の透明感が希望とともに伝わってくる気持ちの良い詩だ。
三省さんにとって、海はまず第一に日々の食事のおかずをもたらすものであった。海は自分達が貝を採りに行く場所であり、近所の漁師たちが魚やイカなどを獲ってきて持ち帰り配ってくれる所だった。
そしてさらに食べ物だけではなく、本来の希望を与えてくれる場所であり、静かに沈潜する自分に真理という大切なものをもたらしてくれるところだった。難しい言葉も華美な言葉もなく、率直にすとんと胸に落ちてくる無駄のないとても良い詩だと私は思っている。
青緑色に澄んでいく春の海を眺めながら半日を過ごす……春の海が私達の心にもたらしてくれるものは深く豊かで限りがないと思う。
潮が昼の潮に変わる(一番潮の引く時間が夜だったのが、4月に入ると昼に変わる)この季節に、3、40年前ぐらいまでは「浜出バエ」という行事があった。それぞれの家族がそれぞれに弁当を持って、浜へ出て、一日貝採りなどをして遊ぶのだという。老若男女問わない集落の人達が集まる浜の様子は壮観だったろう。またそんなたくさんの人が貝採りをしても大丈夫なぐらい海は豊かだったのだろう。
島の春は海から来る。本土の「花見」ように春を喜ぶ美しい行事だったはずだ。
廃れていくには残念な行事だが、大潮が週末に来るとは限らないから、勤めに出る人がほとんどの現在では難しい話なのかもしれない。
だが、現代の暮らしによって、私達が失った精神性はこんなところからも来ているに違いない。
山口県油谷町の祖父母の家に疎開していた幼少期から、海は三省さんにとっては憧れであり、希望であり続けた。
こんな話をしてくれたことがあった。
17歳の時、親しくしていた従兄の死をきっかけに、精神を病み、1年間高校を休学して療養生活を送った三省さんは、復学を前に油谷町へ足を運ぶ。
おそらくはあまり覚束ない日常生活を送っていたのだと思うが、ある日、断崖絶壁の海岸から飛び込んでみようと思い立つ。
「もし、それで死んだら死ぬ。万が一、生きていたら、そこから再生していけるかもしれないと考えた」と言っていた。
そして海は三省さんを生かしてくれた。
また部族として活動していた頃、1969年、三省さんは与論島で一年間を過ごす。海で貝やさかなを採ったりしながら、夜は虫よけに吊った蚊帳の中でひたすらインド・ウパニシャッド哲学などの勉強をしていたようだ。
「与論の海は本当に美しかった。身も心もとろけるように。でも1年過ごしたら飽きてしまった。その時に山の無いところには住めないと思った」と言っている。
海が何より好きと自他ともに認める三省さんだったが、海があり山がある屋久島に辿り着くひとつのきっかけにもなった与論島暮らしであったようだ。
さまざまな海との関わりがあった62年の人生の中で、1990年の春の三省さんの「海」はなんと穏やかに澄んでいることだろう。
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山尾 春美(やまお はるみ)
1956年山形県生まれ。1979年神奈川県の特別支援学校に勤務。子ども達と10年間遊ぶ。1989年山尾三省と結婚、屋久島へ移住。雨の多さに驚きつつ、自然生活を営み、3人の子どもを育てる。2000年から2016年まで屋久島の特別支援学校訪問教育を担当、同時に「屋久の子文庫」を再開し、子ども達に選りすぐりの本を手渡すことに携わる。2001年の三省の死後、エッセイや短歌などに取り組む。三省との共著に『森の時間海の時間』『屋久島だより』(無明舎出版)がある。