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#山に十日 海に十日 野に十日 10月

サシバの渡りに魅せられて


10月になると、空を見上げることが日課になる。サシバが空を渡るからである。
サシバとは、タカの一種(タカ目タカ科)で、体長約50cm。翼を広げると1mほどの猛禽類。風を読み、上昇気流に乗って空高く舞い上がる姿は、何度見ても感動的である。

サシバは、春に東北以南の本州・四国・九州に飛来して繁殖。秋に南西諸島や東南アジアで冬を越すために、渡りを繰り返す。屋久島における越冬サシバの詳細な調査はなされてないが、奄美大島の昨年の調査では、約二千羽の越冬が確認されたという。
だが現在サシバは、環境省レッドリストで「絶滅危惧Ⅱ類」に指定され、年々絶滅の危険が増大している……。

サシバの渡りは、年に2回見ることができる。3月から4月にかけて北へ向かう「春の渡り」。そして9月から10月にかけて南へ向かう「秋の渡り」。特に秋の渡りは、秋雨前線や台風などの影響で群れが集結することが多く、夜明けとともに大きな群れをなして、一斉に飛び立っていく光景は圧巻である。

日本列島の渡りのコースはほぼ決まっていて、渥美半島の伊良湖岬~鹿児島県の佐多岬~屋久島~南西諸島のルート上を渡る。天気が好条件の時には、一日に400km以上も飛ぶこともあるという。
そんなサシバの渡りを見ていると、つい口ずさんでしまう歌がある。それは「サシバよ渡れ」という歌。

大きな円い輪を 何度も描いて
上昇気流に乗って 昇っていく
サシバよ渡れ おまえは渡り鳥
南をめざして 海を渡っていけ

「サシバよ渡れ」(詞=笠木透・曲=坂庭省悟)

(名曲です。ぜひ聞いてやってください。作詞者も作曲者も亡くなられてしまったけど、この歌は唄いつがれていくことでしよう)

空を仰いで、サシバを見ているとき、もう一人思い出す人がいる。それは、永里岡(なが・さとおか)さんである。大正5年口永良部島で生まれ、昭和12年から51年まで教職に就く。一湊中学校の教師をされている時に出会い、ヤクシマカワゴロモの生態について教えていただいた。また上屋久町文化財審議委員長をされている時にも、とことんお世話になった。

里岡さんは、50年以上もサシバの観察を続けていたが、平成6年10月に肺癌を発病。余命6ヶ月と告知されると即座に「島に帰り、やり残した事をしたい」と東京の病院から帰島。全力を投入してサシバの観察記録(昭和44年~平成6年分)をまとめあげ、直後の平成7年5月に亡くなられた(79歳)。ご子息は、同年12月「サシバの渡りに魅せられて」というタイトルで、その遺稿を出版した。

昭和44年10月16日 曇 南南西の風0.3m/s 後北北東の風1.5m/s  
7時20分、昨日南下しなかった群れ(500羽)の姿はもうない。朝凪に東側コースで渡ったものと思う。7時40分~11時までの間に、5000羽前後の群れが、40分~50分おきに飛来した。その大群が旋回する光景は、雄大そのものである。旋回した後、隊形を整えて大河が流れるように南下していく。万羽を数える大群に巡り合ったのは、本当に久し振りである。若しこの群れが今秋最後だったら、このすがすがしい気分で、来春を待ちたいと思う。

昭和52年10月9日 晴 北の風4.4m/s
6時10分、サシバの小群(10羽)が高く舞いながら南下した。
10時30分、サシバの大群(400羽)が飛来した。一湊地区の上空で旋回と宙返りを繰り返した後、隊形を整えながら南下した。布引の滝の山頂では、越冬サシバ2羽が、追いすがるカラスをひらりとかわしながら舞っている。

永里岡「サシバの渡りに魅せられて」

上記のように、「サシバの渡りに魅せられて」は、詳細な観察記録であるが、その本の結びで、里岡さんは次のように述べている。

現代は情報過多と言われている通りで、いとも簡単に情報が得られる。その便利の反面では、かつて重宝がられた伝承が風化しつつある。これも時の流れだからと言ってしまえばそれきりだが、ただその便利に頼るのではなく、じかに自然と向かい合うことによって、ふるさとの伝承が幾世代もの経験を累積した所産で、自然界と共生しながら生きていく生活の知恵であることに、人々が気づいたとき伝承は風化から免れると思う

永里岡「サシバの渡りに魅せられて」

かつて、「老人はひとつの図書館である」と尊敬された時代があった。インターネット万能の現在、「何も老人たちに聞かなくても、クリックすれば全て解かる」と、ないがしろにされつつある。だが果たしてそうか? 人が生きて行くということは、試行錯誤の連続である。老人たちや先人たちの経験値は、いつでもぼくらの人生の道標(みちしるべ)である。
サシバも、ふるさとの伝承も、絶滅危惧種にしてはならない。

※永里岡さんの著作物
「タカの北上コースについて」
「屋久島の野鳥編」
「屋久島の地質概要」
「薩南諸島の海域に生息するウミヘビの生態について」
「一湊地区の墓制誌について」
「屋久島の地名考」他

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長井 三郎/ながい さぶろう
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に『屋久島発、晴耕雨読』。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。