自分で薪を割る
こん○○は。
作り手の想いにストーリーという名の翼を授ける「ストーリービデオグラファー」藤堂八雲がつづる、今日の雑感。
僕の家には暖炉がある。
そこで一番の問題になるのが、薪をどうするか、だ…
って、そんなわけないでしょー!!
都内のマンションですからw
さて暖炉で場が温まったところで、本題へ。笑
タイトルの言葉は、僕が過去、どこかで聞いて心にメモをした言葉である。
暖炉とは、暖を取るためのものだ。
そして暖炉には、薪をくべないといけない。
人間は自分一人だけでも、頭や心をフル活用して、色んなことを想像したり考えたりして、好奇心やクリエイティブな欲求を満たすことができる。
しかし、「心の豊かさ」に関しては、自分ひとりだけでそれを満たせる人はいない。
つまり、人は何かしらの方法で、暖を取る必要があるのだ。
暖炉は一つの手段だが、カイロ、電気ヒーター、エアコン、太陽、などなど、暖を取る方法はいくらでもある。
俺は走って身体を温めるぜ!という人だっているだろうし、俺はカレーを食べる、私はお風呂よ!人だっているだろう。
そして「もの」ではなく、「人」に温めてもらうという方法もある。
心の豊かさを満たす方法は、人様々だということだ。
さて、自分で薪を割る、という言葉に戻ろう。
個人的には、暖炉に薪をくべるという方法で暖を取りながら、ゆらゆらと揺れる炎を眺め、サッシカイアを飲むなんてのは、実に贅沢な時間の使い方だと思うのだが…
「何か」欠けているのだ。
何かが。
欠けているのは、「薪をどうやって手に入れたのか?」ということだ。
昔の本来の暖炉の使い方なら、山に木を切りに行き、薪として使えるよう斧で割り、それをちゃんと燃えるようにしっかり乾燥させストックしたものを持ってきて、暖炉にくべるわけだ。
しかし、この現代においてそんなことをしているのは、一部の本当に好きな人たちだけだろう。
とは言いつつも、「どこかで誰かがすぐに使えるようにしてくれた薪」を買ってきて使うことを、僕は否定しない。
一方で、心に留めなければいけない大事なことは、現代において「心を豊かにする」という行為は、誰かの献身、自然の恵みなど、必ず何かに支えられ、「何かのお陰」で成立する行為だということだ。
そして、心の豊かさは、その視点に敏感になればなるほど大きくなっていくのだ。
翻れば、そこに気が付けない、何の感謝も持てない人は、本当の意味での心の豊かさを得ることができないんだと思う。
僕の心の豊かさを支えてくれる要素の一つである、ワイン。
そのワインを開けるたびに、葡萄畑で収穫する人たち、醸造に情熱を注いでいるワイナリーの人たち、さらに言えば、さんさんと降り注いだであろう太陽や、糖を発酵させアルコールへ変えた微生物たち、そんなことに思いを馳せながらその味わいを堪能する。
実に豊かな時間だ。
僕はこんなことばかり考えているから、映像作家として「作り手」と呼ばれる人に対し、ものすごくアンテナが敏感に反応し、その思いを映像を通して広く伝えたい!という気持ちになるのだろう。
自分で薪を割る。
読者のみなさんの「暖」は何ですか?
そしてその薪は、誰が割ってくれていますか?