PLAYERS' INTERVIEW vol.1 小川正志
小川正志、28歳。出身は長崎県諫早市で入社7年目。ラグビーを始めたのは4歳の頃からで、きっかけは兄(小川一真さん、東京ガスラグビー部所属、現サポートコーチ)が通っていた長崎ラグビースクール(以下長崎RS)の練習見学を行った際に、コーチから薦められ入部。長崎RSは、多くの名プレーヤーを輩出しており、長崎県はラグビーが盛んで、お母様が体の大きい兄をラグビーの世界に飛び込ませたそうです。その兄の背中を追いかけていった小川正志選手。控えめな性格でも心に秘めた闘志で何度もチームを救うプレーをしています。2024-25シーズンの共同キャプテンの一人、小川正志選手をインタビューしました。(取材日:6月15日)
ラグビーの面白さって体をぶつけあうこと
――最初についたポジションを教えてください
足が速かったのでコーチからバックス(ウイング)を薦められました。
――フォワード(以下FW)のポジションについた時期を教えてください
小学5年生くらいです。フッカー(HO:2番)を最初に経験をしました。小学生のラグビーって、FWであればどのポジションも変わらないです。コーチから勧められたポジションだったのですが、楽しさを感じました。このときの勧めが今の私を形成しているのだと思います。
――FWの楽しさって何ですか?
体をぶつけるところですね。ラグビーは体をぶつけ合うところが楽しいと思います。
――得意なプレーは何ですか?
派手なプレーはできませんが、身長を活かしたラインアウトが自分の持ち味だと思います。ブレイクダウン、タックルといった派手さはない泥臭いプレーが私の強みかもしれません。
――高校の進学先、その高校を選んだ経緯を教えてください
公立校で進学校の長崎北陽台高校を選択しました。品川先生と浦先生の指導を受けたい気持ちが強かったのと、小中学校時代にテレビで見た花園での活躍です。ベスト4まで進出して、そのときのフォワードが活躍をしていて『ここでプレーしたい!』と思いました。あとは兄が進学していましたので、その後を追いかけました。
――高校時代の思い出はありますか?
仲間と過ごした時間です。文武両道を校訓としている学校なので、勉強がすごく大変でした。しんどい時期もありましたが両方をしっかりやりきることで得られたものがあったと思います。学生ラグビーって期間限定で、高校だったら3年間という限られた中で、チームメイトと切磋琢磨し、勉強もラグビーも辛いことも共有し合いながら過ごせました。最後はみんなで笑い合えましたし、仲間との時間は大切な宝物です。
――部員は何人いたのですか?
3学年合わせて30人程度しかいなくて、私が3年生のときの同期は選手が6人でマネージャーが2人しかいなかったです。
――高校卒業後、帝京大学に進学しました。決めた理由を教えてください
当初は高校時代に文武両道を体現してきましたので、大学進学も同じことができる国立大学を目指していました。しかし、兄が通っていた大学であり、兄を通して大学側から声をかけてくださいました。色々と考えましたが、日本一ラグビーが強い大学で競技をしたい決意が芽生え意思を固めました。
日本一の大学で感じた自分の強み、弱み
――長崎北陽台高校では部員数が30人程度、帝京大学は4学年で150人程度と聞きました。正直圧倒されませんでしたか?
圧倒されました(笑)。期待と大きな不安の中でも、自分自身どこまで通用するかチャレンジができるか楽しみでもありました。自分が今どこの立ち位置にいて、どこまで目指せるのかと。でもすごい場所にきちゃったなって思っていました。
――長崎から東京に出てきて大きく生活が変化しました。苦労などありましたか?
入学してから約1ヶ月経過したゴールデンウィークで一旦オフとなり、実家に帰省し、オフを終えて寮に戻りましたが、慣れない生活やしんどいことばかりが続いて苦労というか、辛いというか、、、
――その「しんどい」ことは何でしたか?
寮生活や練習です。すべてが初めてのことで、目の前のことを必死にこなすだけで精一杯でした。ラグビーでも自分自身の実力の足りなさを痛感していて精神的に辛かったです。
――慣れない大学生活の中でお兄さんに相談をしましたか?
いえ、してないです。と言いますかできなかったです。兄である前に先輩でもありましたし。1番の身近な存在の兄に相談できない環境がつらかったのかもしれません。でも、自分の弱さを見せたくもなかったので、その状況の中での支えは同期の仲間でした。
――同期は何人いましたか?
選手、マネージャーや学生トレーナーを含めると37人です。学生トレーナーは途中から入部したりとしていましたが、全員辞めることなく一緒に卒業しました。
――大学時代の思い出の試合を教えてください
本当に色々ありますが、やはり大学選手権の決勝戦です。決勝戦のメンバーには選ばれませんでしたが、大学日本一になるために、4年間がむしゃらにラグビーをやってきたので、仲間と頑張ってきた努力が実った最高の瞬間でした。
兄と別々の道に進んだ社会人ラグビー
――大学卒業後、次のステージに向けてどんな考えを持っていましたか?
セカンドキャリアのことを考えていたので、大学では教職課程をとっていました。当時はラグビーをやれるところまで続けて、その先は指導者になることも見据えていました。もちろん社会経験を積むことは人生の中で必要であると思っていました。
――そう考えている過程の中でヤクルトレビンズを選んだ理由を教えてください
大学時代の恩師である岩出先生(帝京大学前監督)から「ヤクルトレビンズ」を勧めていただきました。チームを知るために、高安監督や先輩である岡崎(拓⼈)さんから話を聞きました。話を聞けば聞くほど素晴らしい環境でラグビーができると思い、入社することを決意しました。
――社会人としてラグビーに向き合ってみていかがでしたか?
純粋に全力で仕事もラグビーもしている先輩方を見てカッコ良いなと思いましたし、会社が素晴らしい環境を準備してくれていることに感謝の思いが強くなりました。フルタイムで仕事して、夜にラグビーをする環境は決して楽なことではないですが、ラグビーを続けられていることにありがたさを感じていますし、この中で頑張っていきたい気持ちになりました。
――実際のところ、どの部分が大変でしたか?
仕事からラグビーへの「切り替え」が難しかったです。仕事のことをラグビーへ引きずってしまったりすることが最初は多かったですね。やっぱり大学生活はラグビー生活の比重がどうしても大きかったので、その部分の切り替えに苦労をしました。ただ、 高校時代の文武両道の生活が、今の生活に活かされているのかなと思っています。まだまだ未熟なんですが(笑)。
――切り替えをするために意識したことなどありましたか?
波をつくらないことです。両方とも全力で取り組むと大なり小なり考え込むケースがあります。でも、そこで考え込まずに浮き沈みをせずに活動することを意識しました。
――小川選手の「切り替え」、どんな工夫をしていますか?
仕事が終わりグラウンドに向かっているときに、前日の練習動画を見て、何をして、何が課題で、それを踏まえて何をするかを自分自身で整理してラグビーに向き合いました。
――4番はずっと背負っている番号ですか?
高校時代はいろいろなポジションを経験しました。4番から始まってナンバーエイト(No.8)だったり、フランカー(FL:6、7番のポジション)も経験して、最終的には4番に落ち着きました。大学時代でも大体4番でしたね。
――「4」という数字に愛着がでますね
ありますね(笑)。私生活の中でも結構「4」という数字に引き寄せられているシーンがある気がします。この着用しているタンクトップも「4」ですし(笑)。
――話は変わりますが、小川選手の同期を教えてください
牧野(真也)、中島(涼介)、古川(拓実)、占部(航典)、アトム(白井吾士矛)、あと最近新加入したソンヨン(李城鏞)です。私たちの世代がレビンズの中で一番多いです。
――同期の絆は深いですか?
深いですね(笑)。そういえばこの間、同期会を久しぶりに開催しました。すごく楽しかったですね。浦和の焼肉屋さんに行って、その後行きつけのバーに行きました。
兄がいなかったらラグビーに出会っていなかったと思う
――昨年12月のトップイーストリーグの最終節、最後の兄弟対決が実現したのですね?
はい、この試合には思い入れがあって、実はその試合で兄の現役最後の試合だったんです。
――その引退は前もって知らされていたのですか?
いえ、何となくこの試合で終わるんだなって感じていました。
――その試合の様子を聞かせてください
兄はリザーブで、私は最初から試合に出ました。ただ、前半で鼻を骨折してしまったんです。止血のため一時交代をして、戻ったんですが、後半21分に牧野と完全に入れ替わりました。でも後半36分に今度は私と替わった牧野が出血をしたために再度グラウンドに出て、そのままノーサイドまでプレーしました。
――同じグラウンドで戦った気持ちを聞かせてください
あまり意識をしないでプレーしようと思いましたが、意識していたと思います。仕方ないですね、兄が最後なので。
――ノーサイドの瞬間、二人が抱き合っている写真がありました。感極まりましたか?
いえ、それは内緒です(笑)。兄は清々しい表情を見せていましたし、やりきったって言っていました。
まだ見ぬ憧れのステージに向けて
――今年12月から始まるリーグワンに参入しました。リーグワンに対する思いを聞かせてください
ラグビーをしているみんなが憧れている日本最高峰のリーグに、自分たちがようやくその舞台に立てる嬉しさや期待、楽しみが今から溢れ出ています(笑)。ようやくスタートラインに立てたと興奮もしています。格上のチームが多いので苦戦するのは間違いなく、厳しいシーズンになるだろうと思っています。だからこそ全力でリーグワンを楽しみたいと思います。
――ヤクルトレビンズ、リーグワン参戦初代キャプテンですね
あまりそこは意識していません。ただ、チームが「らしく」プレーできるように常に考えていきたいと思います。
――シーズン開幕はまだ先ですが、こんな選手と戦いたいなどありますか?
はい、中国電力レッドレグリオンズに所属していて長崎RS時代から一緒にプレーした岩永健太郎選手と戦ってみたいです。
――その岩永選手との関わりはいつごろからだったのですか?
長崎RS時代、私は4歳から始めていましたが、岩永選手は小学1年の時に入部してきました。そこから小学校、中学校と一緒で高校はライバル校に進学しましたが大学になってまた一緒になった選手です。RS時代、彼がキャプテンで、私はバイスキャプテンでしたので関係は長いですし。お互い楽しみにしていると思います(笑)。
――最後に職場の方々、ファンの皆様にメッセージをお願いします
まず職場の方々には、日々仕事もラグビーも全力で注いで活動している選手が、活躍している姿を見ていただきたいです。勇気や感動を与えられるような存在になれればと思っていますので、是非会場に足を運んでいただけたら嬉しいです。またファンの皆様には、レビンズらしさを知ってほしいです。しっかりとした規律のもと、みんな仲が良いんです。 若い選手も意見を言える環境です。そんな和気あいあいとしたチームが私は大好きです。そんな チームを皆様にも大好きになって欲しいと思います。
――ありがとうございました
取材後記
取材・編集:広報担当
写真:土居政則、ヤクルトレビンズ、本人提供