【システム化】没落した人間はAIに勝るのか?【鉄の檻】
こんにちは, ヤク学長です. 近代化し合理化をとことん追求した結果、果して人間には何が残ったのか. そんなお話です.
計算可能な社会
合理化とは計算可能化な世界. ありとあらゆるものが計算可能になると, 環境や未来の予測可能性が上がり, 遥かに複雑な社会を営むことができるようになった.
狩猟時代には動物を感と経験で探し回っていたが, そんな非効率的な世界が終わりを告げ, 科学が席巻を遂げた.
合理化を追求すると共に経済も急激に発展を遂げてきたということ.
つまり, 合理化なくして複雑な近代といったものはあり得ないということはご周知の通り.
究極的に合理化・効率を追求した結果の代償として, 人間を人間たらしめるような「人間性」が失われた気がしないだろうか?? 別に毎日が楽しくない, 悲しくもない, 嬉しくもない. 今の社会はそうした「劣化した感情」を持つ者があまりに増殖してしまっている.
システム的な機械人間
システムが正常に機能すると, 人はシステムに依存するようになる.
その結果、弱き者がジリ貧で地面の水を啜ることになったとしても何故か周囲を頼らない. 周囲はそんな弱き者が這いずり回っていても助けようという意欲がない世界.
完全にシステム化した社会では汎システム化の価値観がインストールされている. つまり, 人の価値観の基盤の上で成立していたベースが流転し, 人間関係の社会が終わる.
果たしてそんな現状を直感しているだろうか?
何がまずいのかというと, このまま順当に進むと日本は人口が減少し100年後には4000万人になる. (厚生労働省調べ)
人口が4000万人の日本では国内だけでジリ貧の戦いなので, 外貨を積極的に稼ぎにいかないとならない. しかし、外国に出れるものは日本にどれだけ戻ってくるだろうか. 賢い者はどんどん外に出て、弱者だけが日本に残る. 残った日本には誰が倒れていようと自分だけ助かればよいと願う, 混沌とした世界.
どこかで拝金的な思想から価値観の刷新が求められる. 楽観的に楽しく暮らすインセンティブが必要になってくるのではなかろうか.
実はそんな, 暗黒世界はとっくに予見されていることが素晴らしい.
シュライアマハーの暗黒世界予言
主意主義(voluntarism) VS主知主義(intellectualism)
19世紀の近代神学者のフリードリヒ・シュライアマハーは, 「弁神論」の文脈で【主意主義】と【主知主義】の視点からシステムに支配された世界の解像度を説明してくれている.
【主知主義】暗黒世界
「システム, 制度, 社会が成立すれば」必ず人は幸せになるっていう主義.
主知主義は人が言うところの「悪」も「殺戮」も「神の計画の内」だとしたスタンスをとる. 世界は「利己的に」「合理的に」動いていると考える主義である
【主意主義】回復への道
システムが全て効率よく成立しても人は幸せになるとは限らない. むしろ, 社会に依存すると完全に幸せから遠ざかるとしている.
つまり, 主意主義は世界は端的にぐちゃぐちゃだと定義している. 神が絶対な世界では何にも縛られずに意志で世界は動くとしている.
また, この観点をを更に記述した者がいる.
マックス・ヴェーバーの「鉄の檻」
19世紀末社会学者のマックス・ヴェーバーである. 西欧近代文明を他と区別する根本的な原理は「合理性」であるとしている. 彼は, 同時代のニーチェの強い影響を受けて, 特にニーチェが言う「力への意志」という概念の影響が根強い.
これは, 人間を動かす根源的な動機である野心というものが「我がものとし, 支配し, より以上のものとなり, より強いものとなろうとする意欲」とすると定義している.
すべては[力への意志]の表れである.
ヴィーバーの「鉄の檻」とはその力が失われた状態のことを言う. 近代化によ り, 既に個人が「合理性」に中に閉じ込められていることの比喩である. 「没人間社会」はヴェーバーの「鉄の檻」の言い換えであり, 「没人間化社会」の中には, 「没落した人間」が魑魅魍魎のごとく蠢いている.
近代化とは合理化であると述べてきたが, ヴェーバーは近代化に伴う副作用を以下のようにまとめた.
[ ①没落社会の中から他者に貢献する人材が生まれるのか? ]
[ ②そうしたとき、人々が民主性が正しく機能するのか? ]
計算可能性のある世界が構築されると, その中では「没落した主体」が残る.
現代社会はこの「鉄の檻」が人間を完全に腐敗させることが予言されている. いざ現状の拝金的な損得のみで生きることをと単に辞める. すると迷走してしまう状態が「鉄の檻」である.
システムで管理された世界では「没落した人間」になる他なく, 「没人間」が営む「没人間社会」には永久に,,,延々と,,,続く無限回路のごとく出口がない.
「没人間」と「没人間社会」がお互いに慰ることなく支え合う混沌とした循環がずっと続くと予想している.
ニーチェによる神の嘲笑
ニーチェは古代ギリシャにまで遡ってこのシステム社会に対して答えてくれている. 社会が主知主義的なシステムに覆われたことを簡単に嘲笑する.
「世界はクチャグチャである。システム的な神に這いつくばったところで何もそこにはない, 主知主義は弱者を奴隷にする思想である」と考えた.
それを19世紀末に改めて広めていたのが, フリードリヒ・ニーチェである.
ハイデガーによる考察
ニーチェから30年後の古代ギリシャ文献学者ハイデガーも「不条理なれども我ゆかん」と唱えている. 「世界はそもそもがぐちゃぐちゃであり, 端的に良いことをしたいから良いことをする」と言っている.
後先を考えて「リスクやコストを下げて利得を最大化しよう」とする発想がない限り, この複雑な社会が回らないことはニーチェもヴェーバーも当然知っている.
しかし, 人間がシステムに閉じこもったら, もはやそれは人間の名に値するだろうか. だから, ヴェーバーが「没落した人格」と名指す. そこに二律背反が存在している.
結局は, 現在の流れの中でシステム化した神様に従うだけというのは主体性がないし「没落した人間」になる. 利得の為には, 自分の我とか感情とかまさに自分の意識, 欲望も含めて利得に支配されたら「没落した人間」になるということである.
果して, AIに取って代わられるかという議論を延々と繰り返しているが, 自分の頭で考えなくなった人間は機械に取って代わられるかことは必然のことだろう.
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