「秋草」2024年9月号
お久しぶりです。「秋草」の山口遼也です。何食わぬ顔で再開します。
これは「秋草」の最新号が届いたタイミングで最新号の一つ前の号の句を紹介するnoteです。1年ほど前の私いわく、
真理だ。
とはいえ最近は「秋草」会員の句集がぞくぞくと出版されているのでそちらも近いうちに取り上げたいです。
では、10月号が届いたので9月号の話をします。
一句目。対句表現でありながら互いの要素は意外と遠くない。夕焼が冷めてゆくとともに宵が始まってゆき、そこに発酵のイメージが心地よく重なる。ビールの樽を思ってもいいし、しっとりとしたパン生地を思ってもいい。理系気質なのか、そういった飲食物に「酵母」を見出すこの人物も興味深い。
二句目。ゆかしい場面を詠むというのはある一面では大喜利のようであるが、謎めいた上五がファニーなだけで終わらせない、親しみやすい余白を一句にもたらしている。「見られたくないものまで」というニュアンスもあり、読者がそれぞれ想像を巡らせてしまう。
このころの主宰は技術を前提とした脱力や逸脱をいろいろ試しているようにも思う。押し引きの感覚。私も頑張らないとなと思っています。
姫君が筆豆なのは想像に難くないし、それ単体だと平安のころの恋のイメージが強く出てしまう。が、この句は姫君と僧が並置されていることで、一読してこの「筆豆」が指す手紙は、暮らしのなかの素朴な営みであるという印象を受けた。もちろんそのなかには姫君の恋や僧の仕事も含まれてくるが、より大らかで普遍的な人の生活として描かれたように感じた。
それは季語「天道虫」の効果も大きい。健康的な白昼の屋外の景が広がる。これは特別な景ではないと思わせてくれる。屋内では姫君と僧がそれぞれせっせと文を書いている。
「天道虫」が席題であった。理屈が介入してしまうと、失敗することが少ないであろう花の季語や雨・風の季語をつけてしまいそうだ。天道虫は突飛で無造作なようでありながら、上五中七の生活感をしっかり受け止めている。もちろんこの無造作さも大きな魅力のひとつだ。
もちろん「我思う、ゆえに我あり」を踏まえている。パロディ特有の、原作を逆手に取った可笑しみである。腸が涼しいという言い方が心にくい。
力尽きたのであとは好きな句をいくつか。頑張りすぎず続けていきたいです。
二礼二拍手山蟻を踏まぬやう 対中いずみ
品がある。いずみさんの句の上品な雰囲気にとても惹かれる。
生活の身近なところを詠んでいるが、視線に作者特有の慈しみや余裕がある。
抱きしめて浮輪の空気抜いてをり 小鳥遊五月
さすがのキャッチーさ。上五にドキッとしつつそれが写生的であることの心地よい裏切り。カクヨムコンテストの大賞もめでたかった。
天ぷらだかさつま揚げだか大西日 舘野まひろ
<水着なんだか下着なんだか平和なんだか/加藤静夫>を思い出すが、圧倒的な素朴さが掲句の魅力。「どっちでもいいわ」と言わんばかりの大西日。
案ずるな紫陽花はもう咲いてゐる 鬼頭孝幸
作中人物がどう設定されているのか分からないのがかえって面白い。誰なんだこの人。知らない人にふいに話しかけられたみたいで、頭に残ってしまう。
11月号が届いたら10月号の話をします。
本当にします。