2261文字、奪い合い世界な有り様を最小化すべく、まず教育者や哲学者に責任を認めてもらおうという話
2024-10-008
世界における奪い合い世界の側面が最小化されてない原因は、個別性の取り違えを論理飛躍に含めてないという意味で論理概念が矮小化されてるからだと考えます。
この矮小化が標準であるのは、個別性に対する同種の他との差異要素捨象は教育するけれど、個別性に対する同種の他との共通要素捨象は教育しない既存教育と整合的な教育者が、
文系事象について成立してるとか、洗練されてるとか、そうした表層形有り様をもって評価するだけで、
個別性の取り違えの有無という内実は問えない(個別性の取り違えを論理飛躍扱いしない)人をつくってるからです。
(飛躍を含まない成立の意味での質を余裕がないのに求めるのも、余裕があるのに求めないのも、局面の個別性との齟齬として修正余地扱いする次善の策運用能力は、
常識はじめ、特定時空に合わせた代物や合わせてる部分を過大評価過小評価する振り回されを防ぎ、変化の過不足の正確な評価を可能にするものでもあるので、
特定時空性を軽視する、ひいては、抽象次元の確からしさの改善改悪に響く具体化精度問題を軽視する類の普遍時空通用性への志向が内容な主張を、
あるいは、限定性に関して同じ構造持つ主張を、真に受けない為にも必要です。)
例えば、内外事情の取り違えを最小化してない実存の許容は、存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させてる状態の、
ひいては、存在が理由にならないものを存在を理由に押し通す振る舞いの許容に他なりません。
つまり、既存教育と整合的な人が平和概念を持ち出すと、不当達成一般への否定を持たないが故に、平和の名の下に奪う側面がそこには含まれてしまうわけです。
同様に、内外事情の取り違えを最小化させてる実存を、自他にも強者弱者にも求める平等性(個別性の取り違えを論理飛躍として扱う態度)を欠いたまま人権概念を持ち出すから、
帰属操作が飛び交う奪い合い世界な有り様を人権概念が保障する形になってしまうわけです。
実際、外在場の取り違え最小な個別性に即した割り振りへの支持の意味でのフェアを、
越えた他者救済への善行扱いも、越えてまで自己を助けない方針によって捨象される問題を捨象せず、振り回されてる状態への共感対象扱いも、
ドーピングによる金メダルを茶番選抜扱いしてくる者は否定し、茶番選抜ではないかのように受容する者は肯定する対世界と何ら変わらないにもかかわらず、人権概念は保障してきたと言えます。
こうした事実は、正しさを、都合を押し通す理由でしかないかのごとく相対主義に落とし込む短絡な反応を呼び起こす原因にもなるわけですが、
この短絡さ(内外事情の取り違えを最小化させてる実存における都合なり、局面事情に即した振る舞いなりの否定は、
存在尊重の否定であるにもかかわらず、その実存におけるものまで含めて否定する過剰否定込み)も、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を根拠にせざるを得ないわけなので、
問題は、この相関(肯定否定保留の根拠)を持ち出す際の観点にもこの相関を適用しているいないという通用領域広狭です。
観点に適用しない不徹底性は先の内実を問えない有り様と重なっていて、徹底してる人の対文系事象は、
認識主体が認識対象を置く認識場の個別性が内外事情の取り違えを最小化させてる実存の反映である場合の、
認識場における具体的有り様やポジションの割り振り(例えば、取り違えを最小化させた局面事情と着目無視との合致の下での対他者である平等や、
その合致に伴う捨象を自己について保持する対自己である自由の帰結)は肯定し(正しいものとして扱い)、
社会が内外事情の取り違えを最小化させてる主体像の集積の持ってる性質を割り振り原理としてる場合の、
社会における具体的有り様やポジションの割り振り(役回りや優勢劣勢有り様)は肯定する(正しいものとして扱う)内容になるはずです。
この不徹底性の問題は、近代以降は方法的懐疑においてこの相関の適用を徹底してるように見えて、
認識主体が認識対象を置く場の個別性の取り違え不問を齎した以上、この相関を持ち出す際の観点にこの相関を適用しない不徹底が言えるデカルトについての乗り越え問題、
個別性の取り違えの有無を、個別性捨象によって無視するカントも、対立解消への志向によって無視するヘーゲル
(対立関係の一方や両方が取り違え有りの場合と両方とも取り違え無しの場合の区別をしない以上、
言い換えると、抽象次元の確からしさの改善改悪に響く具体化精度問題を軽視してる以上、
より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害は最小化されておらず、提示物の確からしさは上限化されてない)も、
デカルトの不徹底さを乗り越えてるとは言えない(のに三者の系譜が主流となって洗練されながら現在に至ってる)点込みのこれとして捉え直せますから、
奪い合い世界な側面が最小化されてない責任は、直接的には教育者にあれども、
デカルトのこの不徹底さを修正余地として提示し周知させられないでいるデカルト以降の哲学者に根本的な帰属があると思われる為、
教育者や哲学者に、この責任を踏まえた主題を持ち、かつ、理想を割り引く程度を最小にしてる現実である、
内外事情の取り違えを最小化させてる実存の下でその主題を具体化する(この時やっと彼らは、
何らかの搾取に与さない側として振る舞っても、AさんがBさんを病気にする構造があり、AさんはBさんに薬を寄付する事でこの構造を保存するマッチポンプと見なされる立場から解放されます)よう求めていきましょう。