表現の自由という概念が有害なのは、既存の自由観が持つ誤解と、管理者ポジション(国等)を批判する際の論点の取り違えのせい
2019-8-002
ドイツにおける表現の自由に関するスレへの投稿内容
表現やそれへの反応に限らず、内在の性質と外在の性質が合わさって現象になる(内外の価値対等)、
両性質が代替不可能な固有性である時、現象は最も確からしい(真っ当な根拠を持つ)、
この現象観の後段における、代替可能要素を削ぎ落とす前後の差分に自由を見るべきと思います。
感情をそのまま出した場合も、それが許される局面だったか、そう勘違いしたと捉え、
内在事情は外在事情と無関係に発現可能かのように誤解してる、
既存の自由観(内と外に上下を見るパラダイム)を過去のものにしましょう。
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究を、
資質と環境、内面と局面、主題と場の関係に持ち込んだ自由観を、
代替不可能な性質以外に振り回されるのを拒んでるという点で、そうでない既存の自由観よりも、
通用領域の拡大や確保が志向されてる、より自由と見なすに値するものと認めましょう。
また、差別批判は未だ、局面と着目無視との一致不一致とは無関係な為、符号反転レベル(歪み保存)です。
人種の差異だろうと、捨象するしないは局面に合わせるべき(差異性同一性は局面が規定するとの観点)、
つまり、その場その場の代替不可能な固有性と着目無視の合致配慮の有無を批判の論点とすべきで、
その合致配慮は管理者要件(場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力)の基盤でもある為、
差別問題も、管理者ポジションを評価する際の統一基準とその周知の問題にまとめてしまいましょう。
(戦勝国にも敗戦国にも、悪行集団内でも用いられるよう、
管理者要件の満たし具合を問う枠組みを標準化しましょう。)
ドーピングしてる選手としてない選手の扱いに差を付けない運営は、
場の本質を損なってる(問われてる差異の取り出しに失敗してる)ので管理者失格です。
管理者の責務を果たすべく敷いた規制や枠組みまで否定しかねない、
場の本質に即した損得を支持してるか否かを区分けせずに保障する近代的権利観やその産物を、
管理者ポジション(内面世界から国際社会まで)を肯定否定する際の根拠にする時代は終わらせるべきです。
ご都合主義者(整合性や根拠への安易な態度)による主張は、
平和希求の形をしてようが芸術の形をとってようが弱者ポジションからのものだろうが分捕りの一環です。
分捕った、もしくは分捕り合戦に参加した過去の反省を求められたとしても、
競争も協調もフェアネスを基盤としてる、分捕り全般認めない健全な世界を目指す姿勢で応じましょう。
(市場や民主制でのアンフェア主体の参加割合を下げる為の現実的取り組みと言える、
場の本質に即した着目無視や損得への支持をフェアと規定した、フェア尊重教育を国の責務としましょう。)
自由観における誤解と、管理者ポジションを批判する際の論点取り違えのせいで、
表現の自由という概念は有害性を抱えており、制限や対制限の根拠も的を外してます。
先の最大限追究(理解力の実質、局面の性質把握でも重要)と、
合致配慮(倫理の実質、問われてる事を違えないという存在戦略)、
それぞれの成果が、与件な有限性(内外境界)に対する最善としての自由と平等、
それぞれの巨視化が、あるべき歴史性(抽象と具体の行き来)とあるべき有無、
それぞれは相補的で、場の本質にしか応じさせない処理を別角度から見たもの。
そう解し、秩序に反映させる正義を、その処理(歴史や存在の中身として積み上げるべきもの)を基底とした正義に限りましょう。
ご支援の程よろしくお願い致します。