排他への批判が搾取可能状況への誘導となってるパターンに、食い物にされる人を減らす教育(性善説性悪説的観念を落とし込む先としての見方にも触れて)
2020-3-004
先の大戦での分かりやすい悪役を持ち出しての、何らかの誘導が現在でもなおあったとしても、
分かりやすい悪役を、仕立てた当初は状況的に必要だった次善の策と捉え、余裕が生じた時点で廃棄した人と、
余裕が生じて以降も居座りを許し続けてる人とでは、反応の中身が違ってくるはずです。
とはいえ、前者であっても、分かりやすい善役に分かりやすい悪役と重なる部分を見出した、
といった程度では不十分である(安易さの除去試みが別の安易さへと繋がる可能性を残してる)ように思います。
日本での、戦争を分かりやすい悪役として扱う例で言うと、それ自体が既に、
排他を批判して搾取可能状況に誘導する側面(移民の経済奴隷化など、この種の誘導は右派系にもあると見るべきで、
そもそも、場の表層に合わせるのと場の本質に合わせるのとが混同されたままでの、場に合わせる事への肯定否定が、
妄信肯定や反動反発肯定、ひいては、搾取発生を齎してる)を持ってるわけで、
他にも例えば、民主主義が分かりやすい善役とされ、反映される個々事情の内実の確からしさ差異を問題にしない実態主義
(実態である事をもって押し付けてくる)に留まってしまう原因の一つでもあるでしょう。
しかし、問題点があるからといって、悪役に値する存在はいない的な方向へと話を持ってくのは、
内実の確からしさ差異の混同状況、ひいては、形骸物への実質持ち偽装による奪われ(ドーピングによる金メダル的な事態)の発生余地に繋がる為、
排他を批判して搾取可能状況に誘導してる、着せ替えレベルの解決にしかなりません。
(火事だと事実を口にしてパニックを引き起こし被害拡大させる的現象を踏まえると、
加工への無条件忌避は対人管理はじめ、他者に影響与える際の実力不足を意味する為、
加工自体を否定するのは分かりやすい悪役化のようなものなので、否定した事にならない。)
対処としては、戦争に対する否定的位置づけを、
奪われ一般、さらには、不当な扱いを受ける現象一般へと抽象化させた上で、その具体形と見なせる全ての内の一つとして捉え直す事(具体化条件の付し直し)をもって、
弱者被害者でも、余裕がない時の振る舞い(都合の押し付けに都合の押し付けで返すなど)を余裕がある時に見せるなら、
そこには帰属の操作(奪う行為もこの一種)があると捉え(場の疑似でない固有性に即した割り振りへの支持を、つまり、フェアを越えては助けない救済観)、
同様に、余裕があってなお次善の策に頼る有り様に対しても、否定的位置づけを可能にする流れが、その本筋でないかと考えます。
この場合、分かりやすい悪役を、抽象化具体化の不足物、とはいえ、具体化条件である局面事情次第では次善の策として肯定されるもの、そう捉え直す処理になるので、
同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足(通用の行き渡ってない有り様)を見出し、不足ない像を用意できる能力が養成されない
(当然、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像の下で、自身の固有性を、できるできないの有限性形態を、培わせる事もない)既存教育に対し肯定的な人達は、
質高低の混同状況(奪う余地)を作る者と混同状況に疑問を持たない(食い物にされる)者、
という搾取構図の発生を抑える働きを、持つ教育と持たない教育との区別がつかない、
つまり、内実の確からしさ差異を位置づけや扱いに反映させられない、文系的には不十分な理解力の持ち主と見なされるべきであり、
上の能力の養成を、ひいては、理解力を最大化させてない状態で対自己含め現象を解釈する為に、避けられる冤罪を防がない意味での冤罪メーカーとも言える彼らは、
倫理的にあるのは、有限(内外境界発生)の与件性故の不完全さ(自身のこれや自他のその集積)を、
負わさざるを得ないもの(選ぶに値する通用の行き渡ってるもの)に抑えにいってる者といってない者との間の差異だけ、そう解した場合の後者に相当すると考えます。
(上の差異および人間観は、
通用領域判定が幸不幸のような表層形への過大評価となるのを、先の意味でのフェアや先の主体像のような内実の確からしさへの志向でもって、抑えにいってる者といってない者との間の差異、そう捉え直せば、
より確からしい有り様を選ぶ際に着目する差異の選定、つまり、採用観点にも通用領域判定を適用してるかしてないかという、
通用領域判定の徹底が表層次元に留まったせいで、主体の固有性疑似化不問な前提化を齎したデカルトを、超えてる地平と超えてない地平、
誰もがより確からしい気がする方を選んではいる、という善性に含まれる形骸性を、デフォルトとしつつ抑えにいってる者といない者、
そうした図式を内包してる事になるので、
デカルト超えてる地平を、存在に関する具体化条件付し直しと共に個々具体として扱う事により、
実際に見られたハイデガー以降の、固有性の抽象化具体化の不足について不問なまま、したがって、対象有り様のいらぬ飛躍を正当化する、排他性否定を更新していった流れとは異なる、
具体化条件付し直しに関するより確からしい抽象具体関係構造を打ち立てる、という道を可能にする、
性善説性悪説的観念を、あえて言うなら形骸善スタートからの、次元設定自在性という人間性踏まえた、
単なる、観点に含まれるいらぬ飛躍の除去問題との見方に落とし込むのを可能にする、
これら、既存の知性や倫理に対する枠組み刷新を含んでると考えます。)
なので、歪んでいるいないを無視した愛推奨はじめ、内面世界での割り振り原理の疑似化具合について不問な位置付けへの有意味扱いを真に受ける
(固有性の疑似化程度不問な為に実態主義に留まってる感情が典型の、代替不可能性に帰属させてないものを帰属してるかのように扱う人は、上で言う後者)、
場を荒らす事への、それが場の本質に合わせた結果かどうかとは関係ない肯定否定に疑問を持たない
(場の上に立ち上がってるものが受容に値するかどうかは、その値する程度への具体的反応が各々の条件の上にどう立ち上がってるかも含めて、
各場の疑似でない固有性の発現を阻害してない、つまり、帰属が代替不可能な有限性にあるかどうかで決まり、
認識も含まれる管理者立場と実存も含まれるプレーヤー立場は、その阻害を取り除き、選ぶに値する通用の行き渡ってる状態を確保する上で協力が必要、という関係にある、
以上の表層形への過大評価を抑える内実に関する話とは関係なく、場の上に立ち上がってるものと自己との関係の表層的有り様、
つまり、支配できてる、支配下にない等の量的距離の大小でもって悦に入る人、自由を覚える人は知的上層にも全然いる)など、
内実の確からしさ差異を区別できない(表層次元への過大評価を内実の確からしさ確保でもって抑える事ができない)が故に、食い物にされる側にもする側にもなる状態のままの人ばかりを、
知的権威のコーティングまでして社会に送り出してきた、もっと言うと、知的権威に搾取可能状況を作らせてきた既存教育に、奪われ現象(不自由状態込み)の原因を帰属させ、
文系の知的権威に自他の思考に対する、それは局面がその疑似でない性質をもって決める事です、それは疑似でない内外事情にのみ応じる主体像が決める事です、
この種の指摘反応を求める事で、搾取可能状況を逆に潰す役回りを担わせにいく教育へと変えるよう、教育者に求めていきましょう。
(対象に関して持ってる抽象具体関係構造が、現実の持つ複雑さに対し通用してる程度を実力と解するとして、
同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足、つまり、限定の過不足を見出せない人は、
表面の異物が取り除かれてるとか、表面がなめされてるとか、それだけでは内実におけるいらぬ飛躍の含有程度について何も言ってない方向性、
当然、内実の確からしさを損なわせまい、形骸化させまいとする配慮から見ると過剰特化、つまり、精度の低い具体化かもしれない、
少なくとも、表面だけが問題になってる局面以外へのケアを欠いた、表層次元への過大評価傾向持つ方向性に、
文系域での実力の上げ方を重ねてしまいかねないわけで、これを環境的に強いてるのが、
したがって、現実の持つ複雑さに通用してない、言わば、妄想的な現象解釈でもって他者の振る舞いなり世界の有り様なり、何らかを否定対象扱いする冤罪メーカーを作ってきたと言える上、
環境が悪くても先の主体像でもって影響を抑えられる分については本人に責任帰属があるのに、
その主体像に寄せる方向性を潰しにくるという、帰属操作の側面を持ってるのが、これまでの教育だと捉えましょう。)