3484文字、反出生主義に丸め込まれてしまわない為に必要だろう理解について、ある種のプロが安易さそのものへのアプローチを妨害するケースにも触れつつ
2023-11-002
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる人だけから成る社会は、修正余地のない個々事情の集積物である為、
その実存における対外在と整合的という意味で、個人と集団のバッティングは表面上どう見えようとも解消されてると考えます。
(個人間対立、人間集団間対立、人と人以外の対立についても以下の理解を押さえましょう。
上の実存でない人はすべて修正余地があるのに、登場人物が持つ修正余地をなくす方向を埋没させたまま誰が間違ってるかを問う、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像からの乖離を解消しないまま法なり、何らかの理念なりをもって日常性を達成する、
これらは次善の策であり、次善の策に頼らずに済むだけの余裕がある局面事情の下でなおそこに留まるのは疑似解決である。
帰属操作の混入を許してる形骸な帰属修正が内容の知性倫理美意識の下で善悪を語る、あるいは、勝負事という形式での存在性の演出的発現における安易さの有無を語るなど、
歪み自体を問題とする流れを、歪みAから歪みBへの振り替えへと誘導する枠組みに丸め込まれてしまわない為には、
現実的事情による加工を受けてない状態のものが、仕方なさを偽装してない現実的事情による割り引きのみ負ってる形を上限や排安易状態として目指しつつ、
代替不可能な内外事情以外にも応じてしまってる事態を、帰属修正不全や仕方なさ偽装として扱う必要がある。)
同様に、過去の自分や遥か昔の誰かもその実存を生きてるならそこに修正余地はなく、
極論、次元設定自在性(人間性)の下での確からしさ判定(通用領域の広狭と確からしさとの相関)を、
その実存の実現(対事情でのいらぬ振り回されへの低通用扱い、例えば、内面世界での割り振り原理になってるものから疑似性を削ぎ落す事で、
感情選抜や意見選抜がドーピングによる金メダルのごとき茶番となるのを防ぐなど)に注ぎ込み可能な過去人のすべてが、その実存を生きていた場合の現在と、
その実存を生きてる人の間にはバッティングはない(遥か過去の誰かがその実存に対しより近い有り様もより遠い有り様もあり得たように、
現在についてもその現在に対しより近いケースもより遠いケースもあり得た)と想像します。
Aであるというだけで有限性(内外境界)が生じてる以上、有限性自体への非難は無理筋であるように、不幸自体への非難は過大要求で、
対不幸の論点は、修正余地なさだけから成ってる状態に近づける事の上限化だとすると、
ある過去の出来事がある人を不幸にしたとして、この現象について我々は上で言う後者のバッティングなさとの乖離具合の観点で捉えるべきでしょうし、
上の実存を生きる人を一人でも増やす、上の実存の下での具体化を上限に上の実存を生きてる状態に少しでも自他を近づける、
これらを対不幸の本筋とすべきで、他の対応を本筋扱いすべきではない事になるはずです。
また、犬や猫や熊を見てそこに、種を要因とする行動原理、文化(飼われているいないなど)を要因とする行動原理、個体差を要因とする行動原理を見出すように、
対人でも我々はそれらを見出してる(もちろん、手に入るのは仮説でしかないので、
仮説改善の上限化、および、不確定物を確定的に扱う次善の策に頼るかどうかを決める局面把握の上限化、
真善美との割り引き最小化の下での対峙に等しいそれらが論点になってくる)と解せますし、
例えば、水について日常生活レベルの理解を持つ人から、化学における現在的知識を踏まえた理解を持つ人までいて、
この差は、両者が上の実存を生きてる場合、二人の修正余地のない有限性形態(できる事できない事の有り様)が、ある観点の下ではそのような差異となって見えたに過ぎないように、
性質を比喩的に事情や行動原理として捉えれば、対人についても、
自分に関する情報が使え、3歳4歳で登場人物ごとの個別事情を、もっと言うと、有限性形態の差異を踏まえた現象理解も可能になるし、
それ以前でもキャラクターについてのある種の性質分別は可能であるとの実験報告から、年を経るにつれ基本的には帰属修正が進むと考えられるとはいえ、
同様の事が言えるでしょうから、対人理解の深浅のむら(例えば、次元設定自在性や性別システムに振り回されてる状態に対し、帰属修正を事実上持ち込めないとの意味で無策と言える現状から、
種要因現象への理解の浅さ、さらには、対象理解に関する抽象化具体化の交互反復の不全が推測される)、
その拡張として状況把握や世界理解に生じる歪さ、これらからくる不幸への対策として、上の実存への寄せによる修正余地なさの向上が要請されてると認め、
既存の文系空間における、同種の他との共通要素捨象(これを用いた抽象化具体化の必要性)への軽視、
および、事情がその捨象に十分さらされているいないの観点の不在、これらをその寄せへの阻害要因として位置付けましょう。
注1
限定を受けてない状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
これらの上限化(有限性による割り引きの最小化)をもってその時点の解決状態とする、
対存在もこの枠組みに落とし込むと、存在が具体的に成立するしないを決めるのは我々でなく場の性質(具体化条件)であって、
我々(場に自身を通用させるという存在課題を所与で負ってる)は、場の疑似化した性質の下での成立具合(不成立込み)から場の疑似化してない性質の下での成立具合(不成立込み)へと持っていく働きかけ、
および、場に置かれるものへの、代替不可能な内外事情にしか応じない実存等の上の上限化状態を、
抽象化具体化交互反復として展開性に拡張させた状態(人で言うと、抽象化具体化の精度最大化を意味するその上限化によって単なる変遷に、
上で言う準備に相当する、自身の個別性を仮説とした時の仮説改善の側面が組み込まれてる形)へと寄せる働きかけ、
これらをその実存(上限化条件)を具体化条件に為せるだけとなるはずですし、
この落とし込みは、存在への尊重を、尊重しない有り様との短絡な表層形反転関係の次元
(内実に帰属修正を見ないとの意味での未解決強要)から解放するのに必要である
(この構造は、目的と秩序を整合させるさせないの話にも言える)と考えます。
注2
抽象化を具体化条件外しと捉えれば、具体化精度への鈍感さはそのまま抽象化処理に響くわけで、
この問題(特に、個別性が根拠になる局面で個別性を同種の他との共通要素捨象にさらす処理が機能しない、という内容の鈍感さ)を質的側面として見ると当然、量的側面も考える事ができて、
例えば、百年前のアメリカにおける常識を知れば、現代日本における常識を踏まえて、特定時空性を負う前の状態を想定する事は可能で、
具体形パターンの網羅が進むほどその想定は確からしさを増し、個々具体の位置づけも井の中の蛙性の緩和によって確からしさを増す、この事実を一般化しつつ
(ちなみに、この緩和によって明確化するのは実態の特異性に過ぎず、常識の有り様から安易さを取り除きたいなら、
特定時空性を仮説として見た時の仮説改善の側面を展開性に持ち込む方向性も必要なのに、
実態露呈に留まるから、実態露呈止まりなプロが自身の権威を異端審問化させ、安易さそのものへのアプローチを妨害する事にもなるわけで、
この形骸権威事態の影響力を小さくするには、文系教育における理解力に文系事象に関する仮説改善の形骸具合の把握、
つまりは、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さの解消具合の把握、
という質的側面を組み込む事で、実社会や文系学問空間へと送り込まれるまでに、
不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通すロジックやその攻守反転ロジックに丸め込まれない、当然、まき散らしに加担しないで済む状態、
例えば、デカルトの実態露呈止まりな側面分の権威や実態露呈止まりの具現と言える現象学系の権威に取り合わない状態になってる人を増やす必要があると考えます)、
例えば、ある種の記憶障害で、時間や空間(距離や位置)に客観性が欠けてるケースを、
具体形パターン網羅における櫛の歯が欠けてる状態を強いられる事(強制的な井の中の蛙性強化)による、仮説の改善不全(抽象次元の帰属修正不全)と解せば、
有限性(内外境界発生)の時点で生じてる遠近なり、注意や意識(注力的問題解決)に際する次元設定(何の差異に注目し何の差異を無視するか)における距離創出やその維持なりに、
帰属修正を持ち込める上限として量的条件を見る局面も、十分あり得るように思われます。