お金持ち等の強者に対する肯定否定が持つべき原理についての考察
2019-10-004
ルサンチマン概念絡みのスレへの投稿内容
例えば、嘘はつかないのが善でつくのが悪という理解は、
場に置かれるものは、場の代替不可能な固有性にのみ合わせた加工を受けるべきとの観点、
つまり、加工のしなさ過ぎやし過ぎが否定対象との観点からは十分有害で、
この問題の原因は現象観にまで遡ると思います。
他者の扱われ方(置かれてる状態)が妥当か不当(本人が引き受けるに値しない)かの判断が、
加えて、不当と判断した場合に己が具体的にどう振舞うかが、
場の本質に即してるか否かとは無関係に、
助ける(経済介すの含む)助けないが肯定や否定される(構造保存を齎す救済の原因)のも、
現象は内在の性質と外在の性質が合わさったもので、両性質が代替不可能である程確からしいとする現象観、
つまり、内外統合が持ついらぬ飛躍を取り除く事に論点がある現象観と、
整合的な倫理の不在(内在不問外在軽視な既存の自由観が特にネック)故でしょう。
強者の扱われ方も同様で、場の本質に即した優劣差異か否かを踏まえた修正が必要ですが、
ある場での価値付けを他の場に越境させない配慮(公平性)を欠けば判断を誤ります。
置かれた場に通用する事が存在要件、その場で問われるべき事を違えない存在戦略の一般化が倫理と解せば、
場の本質に即した扱いを支持してない生(アンフェアな生)を否定する(強者弱者の別によらず)のは、
上の現象観の結果です。
また、市場での競争は、
割り振りが即してる需給事情、それが場の本質から乖離してる程、本来と別物の帰結になってしまうだけで、
場の性質(需給事情)把握に反映される個々事情(責任の所在)の多くを、
場(内面世界や無数にある局面含む)の本質に即した扱い(損得や役回り)を支持する者が占める程、
全体を歪ませない為(全体の健全化は不当な扱いの発生阻止)にも引き受けるべき、妥当帰結に近付きます。
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力(場の管理者の要件)が要求され、評価される点は立ち位置によらず同じと捉えましょう。