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4666文字、3つの主流哲学や文系論理を縛る二択からの哲学の解放、および、帰属操作に寛容な知性倫理美意識からの最も帰属修正的な観点の救出

2024-2-002

近代性をガリレオデカルトホッブズによる宗教からの分離の成功体験に由来する分離処理への過大評価
(例えば、表層形反転に解決を覚える感覚の強化による帰属関係修正への阻害)と解し、
因果性を直接的な連関、相関性を直接的とまでは言えない連関と解するとして、

例えば、Aがあるという時、認識の観点では、AであるとAでないの間、かつ、有と無の間に内外境界線(有限性)が引かれてる(当然、この線は内在性質と外在性質に支えられてる)という話になるし、
存在の観点では、Aの置かれてる場の性質(外在性質)がAの内在性質を具体化した結果という話になると考えます。


同様に、Aさんの行動原理とAさんの把握した置かれてる状況が合わさってAさんのある振る舞いになったと言えて、
この構造(抽象物と具体化条件の総合)がAさんのある振る舞いが持つ因果の中身と見なせるので、

有限の与件性(下で触れてる絶対主義の弊害を踏まえると、無限性からの要請とも疑える)と連関性の登場がイコールになってない原因は、
現象を内外性質統合として捉える現象観の不在(内在不問外在軽視な典型自由観などを強化する近代性の影響込み)にあると疑えるように思います。
(文脈という外在性質に切り出し作用を見ない結果の疑似問題、異同や結び付けに関するそれにも同じ構造が言えると推測します。)


また、より確からしいものが取って代わる運動性と時間(同一性と変化性による統合の捉え直し)観点を、その現象観に加えて、
代替不可能な内外性質統合(帰属修正の上限)と抽象化具体化交互反復からなるものを、受容に値する展開性(論理や歴史)とする拡張から、


共通性(可能世界込み)に立脚してる理系論理が、林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的に通用領域を開いてる内容のより確からしいものが取って代わる運動性を内包してるのに対して、
文系論理が、AにもBにも言えるものをAに固有の性質とはしない能力に立脚せず、

より確からしいものが取って代わる運動性の不在そのものか、局面と形式の齟齬(個別性の影響力の強弱反転)を無視した理系論理の持ち込みかの二択になってる原因
(哲学者がいらぬ対立を生み出す疑似問題メーカーに成り下がってる原因で、哲学をその矮小化から解放する為に取り除くべきもの)も、

帰属修正の取り違えに振り替わってるとの意味で、同じ不在にまで遡れると疑えるように思います。



哲学の解放で言うと実際、その二択はデカルトによる個人の精神の分離(自我にせよ認識場の個別性にせよ、
内実は不問)とガリレオによる科学の在り方の分離の成功体験の影響と見なせますし、

ヘーゲル後の3つの主流哲学は、具体化精度を気にしてるとは言えない個々具体統合を推奨してるヘーゲルの修正点について、
具体化精度不問とはせずに抽象重視と見立て、具体重視(現実重視、実践重視、物質重視、事実重視)に反転させた関係で、

具体化精度不問(例えば、個々人の差異を具体化条件の差異、かつ、具体化精度上限状態を代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針の体現とした時の、
その実存方針の下でない経験を、実験精度の低い実験結果と同一視し、その実存方針の下で手に入るものに獲得を、
見えてる損得によらず限る事に、行動原理を仮説として見た時の仮説改悪の阻止を見る理解の不在)を、

保存してる反応の系譜である以上、対ヘーゲルの観点ではそれらは、実態でありさえすれば根拠足るとする(金メダル獲得という表層形でありさえすれば選抜精度、
言い換えると、何の差異を問われてるものとして取り出すかという観点選抜の精度によらず、金メダルに相応しい扱いを要求するがごとき)実態主義

(所謂、であるとべきとの帰属関係問題を、存在立脚については肯定するけれど、
存在するのと引き換えとは言えない要素まで存在に帰属させる過剰帰属については否定する内容の存在尊重とのズレ問題として捉え直した際の、否定対象)に他ならず、


個々具体の固有性把握の精度は剥ぐべき具体化条件の取り違え具合として抽象化処理に響く点を押さえてる先の能力への立脚
(今何の差異が問われてるかという局面事情の把握精度の上限化に必要なので、
価値付けが、加えて、価値付けの根拠を各場の性質に委ねる平等性が形骸化するのを防いだ観点選抜の条件でもある)からすると、

先の二択に相当するデカルトカント対立枠組みも、ヘーゲル後の3つの主流哲学(が生み出してきた対立構図)も、
抽象度を上げるべき局面で明晰化洗練に走ったあげくのいらぬ対立創出の事例(解放前)と言えます。



ちなみに、資本主義は、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像と獲得喪失有り様とを整合させてる主体同士の合意、少なともどちらかは整合させてない主体同士の合意、
この両合意の差異を埋没させてる実態主義的事態の、需給成立に対する個別性捨象を通した内実次元の影響力無化の徹底による達成
(なので、そこの差異を重要と思わない人の多い社会ほど修正の必要性を覚えないシステム)と見なせます。

また、現象学は、理想を割り引いてしまう現実という関係構造を(人間形式という共通性への立脚による混乱収拾と共に)認識に持ち込んだカントの仕事に、デカルト的懐疑を持ち込むだけでなく、
認識場の個別性に対し、これまで応じてきた内外事情に先の能力が働いているいないの差異を見ない

(通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を方法的懐疑の根拠にしてるのに、
観点設定には確からしさを見ない抽象度不足故の内実次元放置は当然、上で見た局面事情の把握精度の上限化という問題意識と相容れない)というデカルトの弊害も呼び込んでる為、
表層の汚れを拭うに過ぎず、表層次元に留まってる点では拭う前と違いがない実態主義と言えます。


つまり、場の表層に合わせるか場に合わさない(場に合わせた具体化を拒む以上、
内在不問外在軽視な典型自由観も連なる割り引かれを拒む絶対主義は、検証から逃げ続ける仮説が持つ確からしさしか得られない)かの二択、
言い換えると、肥大化した現実事情を根拠にするか現実事情を一切くまない(とはいえ、
個別性捨象による無視である為、資本主義を平等と見なして満足してるのと変わらない)かの二択である、

デカルトカント対立枠組みの外に出ておらず、デカルトとカントの関係をどうこねくり回そうと、
先の能力に立脚しない限り、デカルトやカントの弊害は解消しないと見るべきでしょう。


また、辞書への立脚も、先の対Aさんのように、概念の用いられ様を抽象物と具体化条件の総合体として捉え直した上で、
抽象化具体化が十分か不十分かの観点からアプローチする一環として辞書の情報を活用するのでなく、

そのアプローチとは関係のない依拠に終始するのならば、現象学の話と同じ構造であり、
文系事象の内実(修正余地がないという、受容に値する為の条件が満たされているいない)を検討する能力の欠如

(内実が確からしいなら表層形は気にしないという、内実の確からしさが損なわれないようには組み上がっていないケース以外での表層形への断罪を持たない態度を、
仮に採用しても形骸不可避という意味での、表層形に対する開放性や平等性の欠如)、

ひいては、表層形の近さをもって内実の確からしいものを確からしくないものと同じ扱いしたり、
内実の確からしくないものを確からしいものと同じ扱いする帰属操作の受容やまき散らしを為してきた証拠になってると考えます。


(帰属操作に、あるいは、帰属修正余地に寛容である証拠が重要なのは、知性倫理美意識が帰属修正の働きと言えるからで、
修正機会を逸してまで、つまり、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を引き起こしてまで余裕あってなお都合の悪い事実に向き合う事から逃れる為に、

問題状態に関する抽象度を可能なだけ上げたフラットな観点まで矮小化する、目先きの優勢劣勢に大騒ぎな展開も十分あり得る中で、
観点Aの方が観点Bよりも帰属操作に寛容なのに、知性倫理美意識に観点Aの方が適ってるとか、どちらも同じぐらい適ってると見せかけようとする振る舞いに対し、
丸め込まれるのを防ぎ、最も帰属修正的な観点を救出する上での必要な情報です。)



注1

プラトン以降、哲学には理想と現実の関係をどうするかという問題が基底にあると解せば、
哲学者が仮に実態主義を選んでる場合それは、理想に相当するポジションを切り捨てるという判断の結果と見なせます。

同様に、例えば、実態のより正確な露呈(表層の汚れを拭う処理)を仕事とする実証重視な歴史家が実態主義者である場合も、
テキスト解釈問題における読み手価値観と書き手価値観の関係に重なる、怪我してない時のパフォーマンスを怪我してる時でも求める的過大要求
(修正余地のないものまで問題状態と見なす解決不能性から成る疑似問題)と、

劣勢状態にせよ課されてる条件上の上限はあるのにそこからの乖離を問題にしない過小要求
(できる事できない事、持っているものいないものの有り様である有限性形態に、
修正余地なさという自他が受容に値する為の条件を持たせているいないの差異を埋没させてる疑似解決)を同時否定する


(恵まれているいないによらず誰に対しても、代替不可能な内外事情にしか応じない実存である事は求めるけれど、それ以上は求めない、
当然、自身にも求める事になるので、求めるという主題の具体化条件がその実存方針となる平等性、

運問題含め、修正余地なさを持たせる事で受容に値する程度を上げた優勢劣勢有り様を点として紡ぎ続ける歴史内容へと人生を寄せる働き込みのそれを採用する)
という選択肢を選ばない、との判断と同等の判断が為された結果であると捉えましょう。

この場合、実態露呈も帰属修正の一種であり、実態主義に相当する過小要求は、
救済で言うところの、被救済者に帰属してるものまで救済者が負う帰属操作問題を内包してますから、
帰属修正を帰属操作への寛容さの下で展開する、という仕事へのいらぬ割り引きをあえて選んでるのと同等の判断が(仕事への自負の程度によらず)下されてると言えるわけです。


注2

無限性と有限者の間にある距離は、無限性をより確からしいもの(より通用領域の広いもの)が取って代わる運動性と捉え直した上で、その受容阻害を最小にする事によって、最小にできる

(根拠や権威の起源と思われる、通用してる領域と確からしさとの相関も、何の差異に関してこの相関を持ち出すか、というこの相関への限定作用である観点設定にこの相関を見ないと、
ドーピングによる金メダル的な茶番となるので、同じ構造が必要でないか)と考えます。

ここで言う受容阻害最小状態は先の帰属修正上限であり、上で言う内容の存在尊重はこの状態への支持に等しく、人で言うとこの状態は、先の体現であると言えます。

真善美は理想ポジションである為、有限者という現実はそれらを割り引いてしまう点(抽象物と具体化条件の関係)を認めつつ、
上の運動性を常に確からしさの上限である不変性として捉え直した上でそこに真善美を回収させてしまえば、上の体現はそのまま、真善美への立脚を意味するはずです。

いずれにせよ、理想と現実の関係をどうするかという古代以来の問題に関する理論選択の産物として対真善美はある、
という置かれてる場についての理解を押さえる事によって、疑似問題化してる対真善美に振り回される程度を抑える処理が、真善美を根拠にする際には最低限必要であるように思います。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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