日本における競争(引き過ぎる傾向の疑い)と絡めて、真っ当な倫理を社会に齎す評価行為について考えてみる
2019-10-005
個々人の評価行為の質を上げる事で、真っ当な倫理を備えた社会へと近付き、
ひいては、不当な扱いを被る(人に限らず)という現象の縮減に繋がると考えます。
例えば、マナーや前例に適ってる、謙虚さや素直さが見られる等々、そうした評価項目も、
単なる反動的解決(符号を逆にするだけの対処)としての要請の次元に留まるなら、
社会の健全化の阻害要因になってしまうと思います。
実際、引き過ぎるという傾向による、競争領域の不健全さや競争局面でいらぬ不幸を生む振る舞いが、
その問題の現れとして日本では見られるように思います。
ゼロサムに近い競争状況程、チャンスを逸する、悪手を咎めない、警戒しない等、
競争相手が喜ぶ事(相手が引き受けるべきものを引き受けさせないで済ませる)をした結果、
自分達にとり苦しい事態となって跳ね返ってきても不思議でないはずです。
もちろん、ずるい事はしないという意味での自制は帰結の妥当性の為にも必要ですから、その種の抑制と、
過剰に苦しむ展開として跳ね返ってくる類の非競争性(防げる類の勝負弱さ)を分離するという課題が、
日本人には対競争において存在するのではないかと推測します。
攻めや挑戦をし続けるとか自信を持つとか権利意識を高める等は、
その課題(過剰に引いてしまう)に対する次善の策としてのテクニックのようにも思えます。
恐らく、状況(特に、重大であるない)に振り回される程度をやむを得ない範疇に抑えるべく、
代替が利かない外在事情に引き受けを限る(いらぬ飛躍のない内外統合を現象に求める)という方向性と、
ある場での価値付けを他の場(性質変化含む)に越境させない、
かつ、可能性に閉じない(具体形パターンの網羅程度は性質把握の精度を決める)、
そうした配慮の結果としての抑制(例えば、ルール順守や謙虚さ)に限るという方向性は、
場の本質にしか応じさせない態度の実践という点から見て同じものであり、
自他が引き受けるべきものの割り振り(損得や役回りの、ずるのない割り振り)は、
それぞれの場で問われるべき事(場の本質)を損なわないように形式(次元)を組み上げた上での帰結です。
その実践の観点で評価するという内実を評価行為に持たせる事が、
雑さを持つ次善の策(表層的解決)でない、先の課題への本筋による取り組みに当たると期待しますし、
持たせてる人が増える程、その社会における望ましさ(存在しやすさ)と不当な扱いの縮減は重なるはずです。