3051文字、構造主義を相対主義ごと乗り越えるにはデカルトのミスにまで遡る必要があるのでないかという話
2024-7-002
各文化への同等な権利の付与は、各文化が置かれてる外在場を下とする内在場外在場の上下論
(外在場の性質取り違えである不可避でない偏りの反映だけでなく、外在場の不可避な偏りの反映である非対等性まで否定する過剰否定)なので、
両場の対立における優勢劣勢有り様を反転させただけに過ぎず、優勢劣勢有り様の肥大化部分に相当する搾取自体は保存されており、
内在場性質と外在場性質との取り違え最小化の下での統合という方向性は埋没させられてると考えます。
ここで、前提はどこまでも疑えるとする立場は、近代始点でのデカルトのミス
(方法的懐疑において通用してる領域の広狭と確からしさとの相関に依拠しておきながら、その相関を始点にしなかった為に、
内在的問題解決スタイルである自我と外在的問題解決スタイルである文化の内在外在関係含む、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映として認識場の個別性があり、
かつ、無限者に対峙する有限者に対し、理想を割り引く程度を最小にする現実に相当する同実存が要請されてる場合の、
個人の精神と宗教との統合方向を埋没させる分離に留まった点)を繰り返してると解せますから、
異なる価値観への同等な権利の、個別性の取り違え最小化を条件としてない付与による問題解決
(代替不可能な内外事情にしか応じない主体像と整合的な獲得喪失なり救済等の自他への介入なりを、つまりは、帰属修正的な振る舞いを、
プレーヤー立場にも管理者立場にも要請してない場合の市場や民主制も含まれる)は、
近代人が世界を近代の枠組みに押し込めてるに過ぎない、と見なせるはずです。
代替不可能な内外事情にしか応じない実存への志向(デカルトのミスの乗り越え)を、
抽象化具体化交互反復による同一性と変化性の同時達成におけるその内容に対して、
修正余地なさという受容に値すると言える為の条件を持たせる抽象化具体化不十分さ解消
(場の取り違え最小な性質は具体化に関するこの解消であり、上の実存やその集積が場の性質としてこの解消に相当するケースもある)へと拡張して、
文系的対象(個別性が根拠になる局面での対象)については、同種の他との共通要素捨象という個別性の取り違え最小化を用いた抽象化具体化が、
不十分でなければそれで良い(ここの十分不十分が解決状態と問題状態であって、
対文系ではこの問題状態の総体から上の実存をもって具体化した具体的問題に対し、
単に精神的に距離を取るだけな反応も含め同実存をもって具体的に関わっていれば解決状態となるので、
どのような問題を取り上げ、それにどう反応してるかについてその見た目で肯定否定するのは、その人の対文系が形骸である証拠であり、
同一性や非対等性に対する問題意識は表層次元に囚われてる現れ)とする理解をもって、
帰属修正的(個別性の取り違えを最小化してる)かどうかと関係なく表層形で断罪する系
(変化という表層形と不変化という表層形の関係や絶対主義と相対主義の関係をはじめ、表層形の反転を解決とする発想、
冒頭で見たように、搾取を保存する対立枠組みが前提なので、搾取的なものへの非難が搾取保存への支持の下で為される形になるこれ込み)の主張を退け、
それ系の言動が形骸ではない知性倫理美意識の産物であるかのように振る舞う
(場合によっては表層をなめす洗練具合を根拠としてそう扱うよう強いてくる)帰属操作に振り回されるのを避けましょう。
例えば、フェア(場の取り違え最小な性質に即した割り振りへの支持)を越えた救済に許容的でありながら全体主義には非許容的であるとか、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存(認識場の個別性取り違えを最小化してない、
かつ、社会の個別性の疑似化部分を自身の反映分だけでも削る事をしてない)を生きてないのに、
人が動物を食べる事自体を(場に合わせる合わさないを論点にすると搾取を保存させるので、場の本質にのみ合わせているいないを論点とする必要があり、
場に置かれてる諸々が受ける扱いについても、場の本質が割り振り原理になってない点を糾弾すべきところを)糾弾するとか、
帰属修正的(修正余地がない為に受容に値する)な介入しかない秩序を語ってるわけではない(よって、奪う奪われる関係の反転が関の山な)疑似倫理に取り合うのを止めましょう。
ちなみに、右も左も見えてる状態から右しか見えてない状態への移行について、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を前提にしてるなら、
限定理由の不可避性が持つ確からしさをもって限定に伴う通用性低減を補填すべく、大した理由がない場合は支持しないはずです。
したがって、特化(生きてるだけで現代日本等の特定時空性に関して生じてる)は、
抽象化具体化不十分さ解消の下での特化程度から見た過不足を否定してない場合、その相関を前提にしてるとは言えません
(肯定も否定も保留も根拠はその相関である為、正確に言うと、前提にはしてるけれど、
その相関を持ち出す際の観点に対してもその相関をもって検討するレベルではその相関に立脚してない)。
この事実は、能力(ある方向に洗練されるという程度も込み)や情報や可能性の獲得を、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合させるよう(特化の過不足を避けるよう)要請してこなかった既存教育に合わせ過ぎてる人は、いらぬ特化(特化の過不足)に鈍感な教育論と決別しない限り、
文系権威が相対主義な内容を発信してる(対文章で言うと、主語の切り出しも、そこからの述語の切り出しも、文脈による意味特定も、書き手の対問題も、
抽象化具体化不十分さ解消の対象として捉えてないと絶対主義相対主義間の疑似対立に引きずられ、文章に含まれる疑似解決や疑似問題の把握に取りこぼしが生じてしまうわけだけれど、
この問題は、理想を割り引く程度を最小にする現実という抽象化具体化不十分さ解消枠組みに理想現実関係を落とし込まないまま主語述語関係を論じたプラトンアリストテレスにまで遡るので、
責任について帰属修正すると、落とし込まれてない理想現実関係に疑問を持たなかったこれまでの哲学者、
特に、理系を同種の他との差異要素捨象の下での抽象化具体化交互反復へと再構築し、
そこの抽象化具体化不十分さ解消を確からしさの条件とする事でプラトンとアリストテレスを架橋したガリレオを参照可能な時代の哲学者に立場上最も責任がある)など、
デカルトのミス(その相関を始点にしなかった点)を繰り返してるとの意味で未だ続いてる近代の外に出られない
(近代パラダイムの弊害に関する責任がパラダイムの保存に加担してる分について帰属してる上に、
創造物も近代を超えているいないの点では新しいものとは見なされない)事を意味してるはずです。
(利権の類に限らず、優勢劣勢有り様を固定的に扱った時点で有害だとしても、
競争状況や合理性志向の導入をもって固定傾向を変えにいく反動的アプローチは、歪みでない部分まで否定する過剰否定な対秩序に繋がる点で次善の策であり、
場の性質の変化への対応を取り込んでる抽象化具体化交互反復における抽象化具体化不十分さ解消が、秩序の過剰肯定への対処の本筋だとすると、
この不十分さ解消の一種で、社会という場の性質の疑似化程度を下げるが故に社会についての交互反復における具体化精度向上を齎す代替不可能な内外事情にしか応じない実存を、
損なわせる既存の教育論は、対秩序の観点でも真に受けるに値しないとの位置づけになると考えます。)