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4441文字、人生において知性倫理美意識の獲得に先立って押さえるべきものとは、および、助け合いから搾取側面を取り除く方法とは
2025-2-003
プレッシャーに弱いとの自覚があるなら、せめて負う必要のないプレッシャーまで負わないよう、
引き受ける必要のないものと雨が降ろうが槍が降ろうが引き受けるものの分別に丁寧に取り組むべきです
(プレッシャーを覚えないタイプであっても、地雷原だと知らずに歩いてた的な情報不足による実感なさの可能性もあるので、将来的に必要になるかもしれません)。
また、この分別は皆と同じ事をする自他を肯定否定したり、皆とは別の事をする自他を肯定否定する際の原理にもなるので、
皆と一緒に氷山に向かって突き進んでる的状況に疑問を持たなかったとか、実質的な内実不問で出る杭を叩いたり、正当な理由があってなお出る杭にならなかったとか、こうした傾向が確認されたなら取り組むべきでしょう。
ところで、自分が自分である限りこうならざるを得ないという内容をこの分別に持たせていれば、
分別に即した生が自身に都合の悪い事態を齎したとしても自己存在に立脚した受容が可能ですから、
分別に即した生を上の内容に関してそう思い込む小手先(限定通用的対応)を排しつつ、十全に展開したい場合、
存在するのと引き換えではない要素まで存在に帰属させる帰属操作に対する拒否
(個別性の防げる類な取り違えを論理飛躍に含めてない知性倫理美意識に縛られてるが故に、形骸な存在立脚も権利レベルで保障してしまう近代性に対する拒否でもある)が必要になる為、
話は事実上、有限(内外境界発生や遠近関係発生)の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性から成る
(つまりは、できる事できない事といった有限性有り様に、有限の与件性が持つ修正余地なさと同等の確からしさを持たせてる)
代替不可能な内外事情にしか応じない実存に獲得喪失有り様を整合させる処理に他ならなくなります。
逆に言うと、教育者によるものはじめ、能力や情報(テキスト経験に限らず)や可能性の、この整合要求が先立ってない獲得推奨圧力に妄信的だったり反動反発的だったりした結果に
(つまりは、獲得喪失経験について具体化精度を無視してるわけなので、精度の低い実験結果のフィードバックによる仮説改悪を、行動原理や反応原理に関して強いてるのと同じであるものに対し、
具体化精度無視という内実不問に疑問を持たなかったり、具体化精度を論点にしないまま否定してしまった結果に)、
この整合から見て獲得が多すぎたり少なすぎたりする特化の過不足が認められた時点でその人には、
負ってるプレッシャーに過不足が必ず生じてるし、個別性の防げる類な取り違えを論理飛躍とした時の、
論理飛躍のある標準性まで肯定する過剰肯定や、論理飛躍のない非標準性まで否定する過剰否定が必ず生じてる
(先に見た近代性を右派的に展開するか左派的に展開するかの違いでしかない話を主張の前提に持たせてる事例、
一方の暴走を他方との対立関係で抑える小手先対応を本筋に見せかける偽装によって対権力を矮小化し、
強者弱者等のポジションによらず生み出されてる近代性由来の搾取を保存するタイプの論点ずらしまであるこれを含む、既存の権力闘争空間に、必要以上に振り回されてる側面が必ずあるし、
センスの良し悪しのような想定してる優劣有り様に確からしさを持たせにいってるのみとは言えない部分、
つまり、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害最小化状態との乖離部分の分だけ、優劣付けを帰属関係の操作に利用してる搾取側面が必ずある)わけです。
学問が流行などの特定時空性に必要以上に引っ張られ、過剰な分だけ、研究すべきものがおろそかになったり、研究価値が価値ないとの扱いを受ける実害も、
何が間違ってたのか分かってない空間では、反省してるつもりでも表層形を変えただけの同種の事象を繰り返す反省の形骸化
(論理飛躍のある標準性への肯定を、純粋だったと美化したり、糾弾はもちろん修正余地の提示に対してすら矮小化を図ったりなど、
より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害最小化が先立ってない自己正当化を許す隙も広げるこれ)や、
反省を根拠に表層形を反転させただけのものを解決扱いする(分かりやすいところで、平和の名の下に泣き寝入りを強要するなど)反省の有害化が避けられないわけで、
失敗経験を生かし切れない世界(被害を受けたものが犬死的なさらなる被害を負う世界)も、
程度の緩和に繋がると期待できるので、負うに値しないものを環境が負わせてくる程度を下げる為
(環境が負わせてくる、負わされるに値しないものへの鈍感さを抱えていながら、
自身なり人類なりが何らかに負わせてる負わせるに値しないものに敏感であると自任するのは、
林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な勘違い、および、原理不在という修正余地が言える)にも、
上の整合(認識の獲得では、認識対象に割り引く者としてしか関われないという有限者故の不可避な割り引きを暴力とした時の可能な暴力放棄である、不可避さに偽装してる形となってる部分の除去が、
つまりは、場に合わせる合わさないの表層形反転二択である相対主義絶対主義対立枠組みによる矮小化を、場の取り違え最小な個別性に合わせる方向性をもって防ぐ対外在の、自身が外在場であるケースが果たされ、
言語使用に際する言語が持つ個別性捨象側面に伴う取りこぼしでは、次元設定自在性という自身の種の形式に振り回されるのを、取り違えを最小化させた局面事情に合わせて具体化する能力として用いた理性で抑えつつ、
外在的な問題解決スタイルである文化由来の着目無視傾向へのいらぬ特化を避けた上での、
したがって、同対外在の下での使用をもって、取りこぼしが生じる前の有り様を仮説とした時の改善フィードバックを得てるこれ)を、
知性倫理美意識の獲得に先立って押さえる必要がある(押さえてない知性倫理美意識は、
本人に自負があろうが、権威が付されていようが、修正余地のあるものを修正余地がないかのごとく扱う疑似解決を正当化する立場でしかないし、
実際、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害最小化が先立ってない以上、
自身の行動原理や反応原理、あるいは、コミュニケーションの前提になる情報帰属の有り様把握、
といった置かれてる場に自身を通用させ続ける存在課題に直接関わるものも含まれてる、仮説でしかないものとの付き合い方が必ず安易である、
言い換えると、仮説構築時も込みで検証情報に相当するものについての量や質に、
仮説止まり、あるいは、手持ちの情報の反映物止まりとの事実を含めたその人の内外事情による制約という、内外境界発生や遠近関係発生を意味する有限の与件性に由来する限定以外の、
内外事情の個別性の取り違え部分に相当するいらぬ限定と見なせるものが必ずある、という意味で疑似解決に塗れてる、
さらに言えば、病気をまき散らす構造としてテキスト解釈が先に見た近代性に縛られてる現行の文系空間を見た時の、
症状を軽減する薬の配布によって構造を保障するマッチポンプにおける薬のような役回りを担ってる、
したがって、自負や権威は配布部分以外見ない条件下で成り立つ程度の限定通用性しかなく、小手先対応の具現と見なせる)と認めてる人、
特に、目先の損得によらず、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う人を増やしましょう。
Aさんにおけるある何かについての量が平均よりも多かったり少なかったりしても、
Aさんの責任領域はあくまで、代替不可能な内外事情にしか応じない実存である事(理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実であるこの実存を、
帰属関係の修正余地の全体としての抽象的問題状態を用意し、そこから自身に持たせる具体的問題を切り出し、具体的問題についての対問題を具体化する一連の具体化条件とする事)、
および、他の主体に対する代替不可能な内外事情にしか応じない主体像への接近の働きかけを、同実存で具体化する(内外事情次第なので、表面上何ら働きかけてないケースも全然あり得る)事、
この2点であり、そこから先についてはAさんに帰属してない、との理解をもって、
近代性(個別性が根拠になる局面とならない局面の実質的な分別不全)に縛られた知性イメージ、倫理イメージ、美意識イメージを押し付けてくる
(理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実である同実存を信仰に要求しないタイプ、
したがって、有限の与件性に帰属してる部分以外の防げる犠牲を前提にしてるという、理想ポジションに対する実質的軽視の下での何らかの達成を想定してるタイプの信仰推奨が持つ形骸尊重の構造をそのまま引き継いでる、
との意味での理念の押し付け側面も込み)何らか、主体や概念や局面や時代等の個別性の取り違えをその時点でも修正可能な部分込みで保存する論点ずらしの共犯となるよう仕向け、
この保存に対する、つまりは、内実に関する通用が行き渡っているいないの判定が機能してない論理感覚による対文系をはじめとする、内実の確からしくないものが確からしいものとして、
逆に、内実の確からしいものが確からしくないものとして扱われる状況に対する、
近代性の責任が露見するのを防ぎ続けてる隠蔽工作の湧き出し口とも見なせるこれから、身を守りましょう。
ちなみに、いらぬ不安のせいで何かによるサポートを余計に必要としてしまったという場合、
そこには自身の責任領域、ひいては、自身の解決対象を取り違えた結果の搾取が生じてる、
そう捉えると、社会性における助け合いの側面に含まれてる搾取要素を減らすには、取り違えてない責任領域についての理解の前提化が必要であり、
例えば、右派的にか左派的にかはともかく、ハンデをつけるとの発想もこの前提化の不在故に、
内実の確からしくないものも混在する状況、つまり、搾取に利用される状況を齎し、かつ、表面上の倫理性をもって状況を正当化する展開を齎す
(これは強者ポジションや弱者ポジションへのコミットが、先に見た反省有害化に陥る構造でもある為、
個別性に対する防げる類の取り違えを論理飛躍として扱わない知性倫理美意識の有害性も意味してる)と疑え、
前提化すべきその理解を上のように解する事で、社会の経済側面での分業関係の健全化や、
助けを必要とする立場(赤ちゃんの場合は出産時状態や出産後に関する戦略なので、種の個別性に直接帰属してる社会性の反映)からスタートし、
助ける側に回り、再度助けられる側となる大きな流れ持つ世代間の役回り関係の健全化、
言語に組み込まれてる社会性(先に見た言語使用に際する言語が持つ個別性捨象側面に伴う取りこぼし問題と表裏)における文化的側面
(日本について冒頭で見たような傾向が言われてきた以上、和概念には対象全体にいらぬ劣勢を負わせるような用い方がある)の健全化と、
上で言う近代性の押し付けから身を守る方法とは整合的である、との主張も可能になると考えます。
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