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わたしの中の気づかぬ偏見
私は、差別や偏見に敏感な方だと思う。人がするのが許せない、というより、知らず知らずに自分がしてしまっているのを恐れるからだ。
自分の持つ偏見には、なかなか気づけない。はっきり気づいた、稀なひとつは、この夏。子どもといっしょにアニメを見ていた時。米国発のアニメ、「アバター:伝説の少年アン」。
登場人物も魅力的で、毎回、話の妙に感心した。最初は、いいかげんにつきあう程度だったが、何話かしてからは、正座するような気持ちで見た。
「アバター」の舞台は、中国のような仮想世界。話されるのは英語だが、人物の性格や背景を表すのに、アクセントのある話し方が使われる。髪型や服と同じように。
第2シーズンの後半で、主人公に教えを垂れる僧が2人出てくる。どちらの僧も、特に2人目は、アクセントが強い。
2番目の僧は、1人目と同様、示唆に富む、すばらしいことを言う。顔も、精悍な老人のそれで、かっこいい。
でも、そのキャラの標準アクセントから大きくはずれた言い方を聞くと、わたしは和やかな気持ちになった。なってしまった。
僧が話すのを聞きながら、つい微笑んでいた。すごくいいこと言うのに、かわいく聞こえるなあ、と。
そして、戸惑う。
えっ、どうして、内容だけに反応してないの?人が、こういうこと自分にすると、いつもがっかりしてるじゃん、わたし。
訛りのある同僚の発言が、割引きされたような気がするとき、肝心なのは内容だろうが、と腹が立つのに。
誰の目から見ても、偏見に基づく言動をする人らは、たいてい、指摘されても、本人には、まったく自覚がない。そういう人たちを見るたび、なんでわからないの、と思ってきたのに。
自分の中の、気づかぬ偏見。
気づけぬ、というべきか。
私はオープンマインドでいたいと思っているし、そう言葉にしたりもする。自分が本当はそうでないから、意識していて、心がけているのだと思う。
開き直るみたいだが、それでも、言葉への感覚だけでなく、ほかのことでも、自分に偏見の根があることだけは、自覚している。
こう書きながらも、反省。やっちゃってるんだろうなあ、また。気がつかないまま。