【エッセイ】 崩れるわたし

新しい町に引っ越ししている最中に、2年ぶりに受けたマンモグラフィーの、再検査の結果を知らせる電話をもらった。精密検査に行けと言われた。

そう言われたのは初めてだったが、影があるので再検査ということは、それまでにも何度もあった。だから、あまり気に止めなかった。何より、新しい土地に慣れるので精一杯で、生体検査を受けにいくのは、それだけ先延ばしになった。

意外に平常心で、乳がん告知を聞いた。手術の前も後も、涙は出なかった。手術後の痛み止めも、一回しかもらわず、看護婦さんに感心された。手術したその日に、ベッドの上で笑みを浮かべる写真を、連れ合いにとってもらい、心配する母に送った。

がんだけど、切れば治るところだから。胸は、切っても切らなくても、もともと小さいし。

病気になって動揺はしたが、それを、明るくしのぐ、前向きな、おおらかなわたし、でいるはずだった。

切って1週間後に、もう一度手術をすることになったと言われた。がん専門医の集まりで、わたしの症例を検討した結果、そうなったのだそうだ。わたしは、その1週間後に、今度は右胸だけ切り直され、とられないはずだった、脇の下のリンパ腺を全部取られた。

米国の病院は、入院してめんどうは見てくれない。担当医に、2度目の手術の前に、できたら1週間、せめて何日かでも家に帰らず病院にいたい、と言ってみた。保険会社が許可しない。そして、病院にいると、家ではかからないような感染症になると脅された。手術後の次の日に、自宅に戻った。

2度目の手術後のわたしは、笑おうとしても笑えなくなった。手術の後、胸からぶら下がる透明な管にも、最初の手術の時は、それでもおもしろがれたのに、ただのつらい、やっかいな物、になった。

昼間はいい。家族はみな家にいない。管から出る血の混じる体液の量をはかったり、少し横になったり、病気で弱った人、の風情で過ごす。でも、夕方になって家族が帰ると、それは、うれしいことではあるのだが、よけいな心配やら情報になり、ストレスにもなった。

どうしてこんな状態のわたしが、うるさい家にいなくてはいけないのか。どうしてこんなわたしが、自宅の不便さを我慢しなくてはいけないのか。どうしてわたしに気を使わせ心配させるのか、うちのものらは。どうしてわたしのめんどうをもっと見てくれないのか。どうしてかえってわたしが彼らのめんどうをみることになっているのか。

普段からでも、自分中心思考ではあるが、病気で正当化できる理由があったせいで、その傾向に拍車がかかった。そして、家族がみな、思いやりのないろくでなしか、役立たずに思えた。

そして、そういう感情を家族に出した。たまっている洗濯物をした時。片づけてはいるが、薄汚れた感じの台所をきれいにした時。家の中の散らかりようにがっかりした時。わたしの口調はたいてい怒っていた。弱った体で出せる範囲での怒鳴り声も、何度もあげた。

わたしは家族を楽しみたいのに、楽しませてくれないことに腹が立った。一人の方が楽だったと思ってしまうことに腹が立った。わたしが、おおらかに病と向き合う見上げた人、でいられていないことに腹が立った。

そんな自分がいやになり、わたしなんかいない方が、と思えてくることに涙が出た。手術して、死からは、さらに遠ざかったはずのわたしが、死んだら楽になるんだろうな、とか思う時が出てきたことに、うろたえた。

そして、わたしは、そういう気持ちをどうしたらいいか、全然わからなかった。わたしはジキルとハイドみたいだなと思った。でも、これもわたしなんだ。見たくなかった、別の自分で生きるのは悲しかった。

2度目の手術がなかったら。
担当医が最初の見立てで、そこまで楽観的でなかったら。
生体検査を、半年も待たずに受けていたら。
マンモグラフィーを、とばさずにきちんと毎年受けていたら。

引っ越しする前の町にいたかった。町に大きな病院が2つもあり、信頼を寄せる主治医がいた。友だちも知り合いもたくさんいた。家事が大変なのを見越しての食事の差し入れや、気晴らしのお見舞いで、支えてもらえただろうに。

ひとりぼっちの気持ちだった。誰にもわからないと思った。電話には出なかった。メールやお見舞いのカードも品も、励まされはしたが、わかったような言葉に、傷つけられた気がした。

そして、いちいち傷ついた。心ないひとことに思えた。たとえ、悪意など全くないところから出たものだとしても。それでいて、言葉をかけてくれない人たちをも恨んだ。

健康な時の自分なら、気にもせず、笑いとばしているだろうことに、いちいち拘泥した。


わたしは、そこから、どうやって抜け出せたのか、よく覚えていない。ドラマのような、決め手の一言や場面があったのではない。あったのかもしれないが記憶にはない。

体力が戻り、そんなにたいした手術ではなかったと思うようになった。肩より上には上がらなかった腕が、理学療法士の指導のおかげで、元のように動かせるようになった。リンパ腺除去した腕の方を、あやまって傷つけてしまい、何度かパニックになった。その腕との付き合い方も、だんだんに、なんとなく折り合いがついた。

休ませてくれた職場が、思ったよりあたたかく、復職した私を迎えてくれた。代わりをしてくれた若い人が、いい経験をさせてもらったと礼まで言ってくれた。わたしは誰をの言葉も、うがった取り方はせず、そのまま受けた。

運転さえする気にならない時、家人に送ってもらって何度か行ったサポートグループで、自分と同じ病気の人の、話や悩みを聞いた。何も家事を手伝わず、乳がんを持つ母に文句を言う娘のこと。子どもが欲しいと話していたという、まだ30前後の人の思い出。

自分のことを話すとき、いいんだよ、つらくてあたりまえだよ、とか、怒ってもいいんだよ、いつも強くなくていいんだよ、と声がかかる。彼女らは言う。今ニコニコと話してるけど、前はボロボロだった、と。みんな違うから。毎日、違うから。明日は、また別の日だから。

ジキルでなくなりだすと、他の人の悲しみが、もっとはっきり見えてきた。わかったつもりでいたことが。数多の人が、見えないところで、私の知らないことで、悩み、苦しみ、悲しみ、痛みに耐えている。病気とか子育てとか介護とか、ひとことで言える理由でなくても。

この経験をする前の自分が、病気や何かで悩む人にかけた、わかったような言葉を思った。または、言葉もなにもかけなかったことを。わたしもまた、思いがけず誰かを傷つけてきたのだろう。もちろん、今でも。

乳がんになってよかったとは言えない。なってないのが一番よかった。それでも、なったから思えるようになったこと、気がついたことがある。それは、ありがたいと思う。

わたしはストレスをためやすいので、がんになったのだろうと何人もの人に言われた。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。正直わたしは賛成していない。でも、そういう説もあるのだろうし、わたしがそれで何かを失うわけでもないし、説の一つとして受けている。そう思うことが、誰かのストレスの足枷になるのなら、それもいいことだろうと思う。

今のわたしは、全然ジキルのようではない。あの、3、4ヶ月間の、自分を見失っていたわたし。あれはわたしじゃないからと家族の誰にも、言った。子供には、一度あやまった。あれをお母さんだと思わないでほしいと、記憶から消してほしいと頼んだ。

家族は、その頃のことが出ると、冗談のように触れはするが、誰も自分から好んで話題にすることはない。時間がたった今では、あの時のわたしは正常じゃなかったということになっている。あの時は、わたしじゃなかった、と。自分たちの知っているわたしは、あんな人じゃない、と。

わたしはだんだんと、崩れる前の自分に戻っていた。でも元どおりではなく、わたしは、ジキルでは決してないが、以前の自分でもない、たぶん別のわたしに、なってしまったような気もしている。

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