イタい私の “Love in Two Languages” (後編)
最初の学期ほどではなかったが、私の自尊心は、まだ皆無に近かった。
アジア文学のクラスとか、女性学のクラスとか、楽しめ、参加もしやすい授業もあったが、ほかのクラスは、自分が強く興味を感じるトピックでも、ついていくのに必死だった。
そして、自分の住処に帰ると、自分よりずっと利口で、博士課程も修了間近な、美しい顔の誰かがいる。自分はだめだなあと思っている気持ちに、追いうちをかけるような毎日だった。喫煙は習慣になり、私は見るからにやつれだした。
学科にいた若手の教授が、研究のため、2ヶ月ほど国外に行くことになっていた。その人が声をかけてくれて、いない間に、自分のアパートに住まわせてくれた。
彼と離れると、たしかに私は明るくなった。自信はないが、それが、態度や発言に、あからさまに出なくなった。
11月の末、彼と共同で借りているアパートに戻った。そのすぐの週末、遅く起きて、シャワーの後のバスローブ一枚で、一人で台所にいた。だらけた格好のできる、だるい土曜の朝。
そのうち、昨夜は遅く帰ってきた様子だった彼も現れた。長袖のコットンシャツに、パジャマのズボンの、起き抜けの格好だ。
私が教授のアパートに行く前から、私たちはたいてい、こういう、ただのルームメートでござい、という格好をして、平気で過ごしていた。
平気と書いたが、本当で、彼自体に未練はなかった。たぶん、未練があるとしたら、誰かとつがいになっていること。人が羨むような男と、ということ。
でも、それも、私の信条には合っていない。健康な時の私の。健康的な考えができる時の私の。
顔を合わせるのは、2ヶ月ぶりだった。台所の大きな窓から、昼近くの冬の日光が差し込む。外は寒いが、中は、バスローブをとっても寒くないほどの暖かさだ。
久しぶりだね。一人暮らし、どうだった。今、誰と会ってるの?と、なんでもない質問をし合い、会話をした。
気がつくと、私たちは唇を重ねていた。舌が入る。どちらからともなく。
いすにすわったままの私を、体をふたつにおるように、彼が抱きしめる。そして、離れない、舌がからまるキスは、首筋をとおり、だんだんと下におりていった。
彼は、腰をかがめる。バスローブの下には、私は、下着もつけていない。声がでた。声がもれて、とまらなかった。そして、彼も声をとめさせようとはしなかった。
ようやっと、顔をあげた彼は、目が潤むように充血して、私と同じように、荒い息をしていた。
しよう。
どちらが言ったのか。どちらもか。
でも、言ってから、彼が少しだけ、ためらうような間のあと、きく。
だいじょうぶ?
ああ、私たちは、「元カップル」だものね。
だいじょうぶ。寝るだけだから。スポーツか運動だと思うから。
私たちは、体をくっつけながら、台所の丸テーブルに、私が下になり、彼がかぶさるようになった。
その時、彼が言った。
やめとこう。
思いがけない言葉に、思わず身を起こす。何を今さら。
どうして?私とそういう気にならないから?魅力的じゃないから?
ううん。したい。すごくやりたい。今、すごく興奮してる。
じゃあ、なんで。私はしたい。別に、好きとか、またつきあうとかじゃなくて。今していることを、おわらせたい。
決心するような、とまでは呼べない、でも、しばらくの間があり、彼が言う。
君がつらくなるから。
彼は、自分も苦しそうな顔をして、私の体から離れた。
女の方に、きっとつらいと思うから。
私は何も言わずに、自分のほてる体を感じながら、バスローブを、はおった。
しばらくして、そのアパートを又借りしてくれる人たちが見つかった。年の終わりには、この共同生活も終わることになる。ほっとした。
まともな成績がもらえそうなレポートが、どのクラスでも出せそうだった。英文がつたないのは自覚していたが、自分なりには満足だった。理論的な思考ができないのか、私はバカなのか、という、自尊心欠如の沼の、底からは脱した。
性行為を途中やめにした日から、私は外を走るようになった。吐く息は白く、喘息気味の私には、つらいはずなのに、気分が高揚しているせいか、走れた。期末レポートを全部出し終える日まで、毎日走った。
授業最後の週の木曜日、同居人の彼が、自分が受け持つクラスの授業を見に来いと言う。卒業が近い彼の、助手としての授業は、これが最後だ。
今日の授業は、自分の最高の講義になると、自信たっぷりに言う。聞かないと損だ、とも。彼らしい。自分で録音もするらしい。レポートの見通しもついていたし、私は、そこまで言う彼の講義を聞きに行った。
哲学入門のクラス。彼は、その講義で、自分の思う哲学やなんたるかを披露した。そして、終わりの方で、人生の意義は何かと話し始める。ニーチェの考えを基にしていた。
三角形を黒板に書き、人生、目標、意義、と言葉を置く。人生の意義とは何か。そして、言う。人生に意義などないと。
意義は、できるもの。結果として出てくるもの。自分が生きることで。自分が選んでしてきたことの積み重ねで。自分の生き方が、生き様が、人生の意義をつくるのだと。
そして、ニーチェの有名な質問をする。今までの人生を、もう一度すべて最初から、あったそのままの通りに経験することが、あなたにできるか。耐えられるか。同じことを同じように、もう一度なぞるように体験しなくてはいけない。そして、彼は、高らかに言う。自分は、できると。
私は、彼の、人生の意義あたりで、もう涙が浮かんでいた。
これを聞かせたかったのだな。私に。
わかってる。彼は、そこまで、私のことも誰のことも、考えている人ではないことを。こうして、パフォーマンスのような部分に力を発揮し、人を魅了することに長けているだけ。それだけを、本人が楽しむ人なのだということも。
それでも。
私は、どんな形でも関わりを持ったこの人が、私の人生に現れたのは、このためだったのだと思った。
そう思うことにした。
彼と同じくらい、もしかしたらもっと、私も、自分のことを一番大事に考える人だったから。
これが彼の使命だったんだ。
こんな、本読めば書いてあるようなことに、私が心を震わせて、魂レベルの理解をしたと思わせることが。
これだけが。
外国語で恋愛をした。
外国語を話しながら肉体関係を持った。
外国語でわかりあい、外国語で悲しんだ。
外国語で自尊心をボロボロにされ、外国語に自信をもらった。
外国語で勉強し、外国語で学位をとった。
若い私が、思いを寄せ、恋い焦がれていたのは、この、外国語というものだったのかもしれない。
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離れたところで見る、この若い私は、正直イタい。でも、決めつけるようなことも、そのイタい女の成れの果ての自分としての反省も、言葉にはしないでおく。
彼女は、そんなことをされたくないと思うので。起きたことはすべて正しいとか、言いそうな気がするので。そして、実際、こんなことを思い出して綴ってしまった私も、そんなこと、どうでもいいとも思っているので。